2007年7月 8日 (日)

今週(7月9日~15日)の運気

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 いまは動くときではない。手足が激しく動いているときでも、動かない背中のように、天地の動きを全身に感じて、取り巻く世界の動静には影響されず、他力をあてにせず、こころを平にしてわが道に踏み止まり、そして、力を貯えるときだ。そうしていれば、なんの問題もない。

 山の上に山がある。それは重なる苦難が前途を塞いでいるから、止まれ、と、山々が自らの高みに安んじ、泰然として動じないように、いまある現況に安んじて動かないでいるときだということをメッセージするものだ。
 同時に、山にはそれぞれの高さがあるように、人にもそのときどきの分限(立場)がある。また人生には進むべきときと止まるべきときがある。ひとはただ闇雲に突き進めばよいというものではなく、そのときどきの自らの分限(立場)と進退の機微をクールに見きわめて、行くべきは行き、止まるべきは止まる。そこに人生の王道があり、揺るぎない未来が約束されるのだということもメッセージしているのだ。
 そして、いまはなにごとも歯車が噛み合わないときだから、こころを安らかにして動ぜず、自らを磨くことに専心していれば、行くべき道は、自ずと開けるというのだ。

 その頬に止まる。発言を求められたときには、慎重に言葉を選んで筋道の通った意見を述べ、言葉を慎むように心掛ければ、悔いは残らない。
 こころ静かに、その止まるべきところに自ら止まる。安んじて止まっていれば、自ずと新たなステージが開ける。


 こころある人はこの卦を見て、止まるべきときは止まることの必要を知り、自らのいるところにとどまって、等身大を超えた野心を持たないように努めたという。

 人は止まる、動かないでいることに不安を覚える。世の中も右肩上がりに前進していれば安堵し、停滞すると世界が終わったような気がする。なぜか。朱子はいう。
 それは生きものにとって〈動〉は生を意味し、〈止〉は死を意味するからだ。それゆえ、動いていることに安心を覚え、止まることに不安を感じる。それは死の不安から逃れたいという、生への執着がもたらす、きわめて人間的な、ある意味ではバランスを欠いた心性だといえる。どんなにジタバタしようとも物事にはかならず終わりがあり、人はかならず死ぬ。その現実をきちんと受け入れ、動くことによってごまかそうなどとはせず、みずからすすんで止まるとき、人ははじめて逃れて得る安心ではなく、真の安心を知ることができる、と。朱子は六十四ある卦のなかで「もっとも好きな卦だ」といっている。また、ある達者はいう。
 こころがいま現在に止まっていれば、そのときこころは静寂と至福に満たされる。安んじてそこに止まれ。ビー・ヒア・ナウ。


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2007年7月 1日 (日)

今週(7月2日~8日)の運気

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 この週、沖天に昇った太陽が、命あるすべてのものに燦々とエネルギーを降り注いでいる。想うことがなんであれ、おおいに叶う。ピンライトのなかに浮かび上がった主役のように臆せず、積極的に行動するときだ。しかし、それは天が味方をしてくれているからだということを忘れてはならない。

 天の上に火がある。
 いま、燃え盛る太陽が沖天に昇り、万物に光と熱を与え、その慈愛に満ちた広大無辺な包容力でもってすべてを包み込んでいる。地にあってその恩恵を受けないものはなにひとつない。もちろん、万物の一員である自分も例外ではなく、その行なうところを全面的に受け入れ、そしてバックアップしてくれる。
 想うところを照らし見て、それが私利私欲を満たそうとするためのものではなく、〈天〉=剛健な精神と〈火〉=輝く知性を両輪として世のため人のためを想うものであれば、単に想うところが叶うというだけではなく、望外な成果を得ることができるだろう。

 小さな成功でもそれを手にする人はと偉そうに振舞ったり生活も派手になったりしやすいものだ。自戒して謙虚、倹約に努めれば、悪いことはない。
 自分の能力を謙虚に見極めて、そのすべてを尽すことだ。それだけで必要なものは十分に得られるのだ。能力以上のことをしようとすれば禍いが降りかかる。
 危機はすべてがうまくいき、大有の極に達したときに芽生える。そうと知って自らを戒め、慎むものだけが真の成功者を生きることができるのだ。
 信頼してこころを開いて接すればこそ、相手も信頼してこころを開くのである。威厳は偉ぶる態度によって得られるものではなく、偉ぶらない態度のなかに自ずと宿るものなのである。


 こころある人はこの卦を見て、まずは日常の行いの隅々にまで光を当てて検証し、悪しきところは直ちに止め、善きところは延ばすようにして、思い行なうところに一点のかげりもないように努めたという。

 この卦を得たとき、古人は飛び上がって喜び、天を仰いで感謝の意を捧げたという。〈大有〉とはその有するところが大きいという意味。なぜ、大きいか?天のサポートがあって自らの実力以上のものが得られるからだ。
 今週は〈天がついている〉ことを実感できるシンクロニシティ(歓喜すべき偶然)を感じる機会が多いはず。逃さず、そのリアリティを実感・体得して、いつでもその〈天がついている〉感覚を呼び起こせるようにトレーニングを。3月と5月にも同じチャンスがあったけれど、このように続けて天なるフォースを味方につける術を学習する機会がやって来るなんて!なにか〈理由〉があるのかもしれない。あくまでも謙虚に、小さな幸運にも天なるフォースが味方をしてくれている事実を体感して、その都度、深い感謝の念を捧げましょう。


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2007年6月24日 (日)

今週(6月25日~7月1日)の運気

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 詰めの一手を決断するときは危険が伴う。まじ、自分に誤りがないかをよく検証して足元を固め、力に頼らず、まごころを持って決断に至った経過がだれの目にも分るようにした上で、行なうべきは断固として行なう。間違うことはない。

 天の上に湖がある。
 これは大豪雨が一瞬にして一切を押し流してしまうように、時勢が一転する回天的変革が起こるだろうことをメッセージしている。また、いちばん上に残っている唯一の陰爻が変じれば、六つの爻のすべてが陽爻になるまでに陽の気が上昇してきており、これもまた時勢が時を置かず、もっとも陽の気が旺盛な〈乾〉の時代へと移ることを示唆している。
 さらに、上卦の〈兌=湖、喜びを象徴している〉はその転換が歓迎すべきものであることを示唆している。したがって、この変化はたとえそれがどんなに激しいものであっても恐れる必要はまったくない。
 しかしながら、このコペルニクス的転換の余波はまた隅々にまで及ぶから、しばらくの混迷を生き延びるための物心の備えは必要であるし、また、その受け止め方は当然ながら、それぞれがいま立っている立場によっても違う。それゆえ、そのことをよく心得て、この卦のアドバイスを読む必要がある。

 叫ぶべきまこと(真、誠)のないものにとっては当然の報いというべきか、最悪。すべては遠からず終わる。


 こころある人はこれを見て、回天的危機が迫っていることを知り、人びとに備えが行き渡るように努めると同時に、それが恩着せがましくならないようにこころを砕いたという。

 〈夬=かい〉は時勢の交代を告げる卦である。したがっていま立っている場所、なにかを守ろうとしている側か、新たな局面を切り開こうとしている側かによって、この卦の受け取り方は正反対になる。前者にとっては延命に必要な対応の仕方について、後者にとっては攻める際に留意すべき忠告をこの卦から読み取る必要があるのだ。
 易経では、こころある人として君子、すなわち守る立場にある側を想定しており、ここでもその解釈に従わせてもらった。「人びとに備えが行き渡るようにし、かつ、それが恩着せがましくならないように努めた」というアドバイスは守る立場にある人を意識してのそれに違いない。
 ところで衆のために卦を立ててきた先達たちは時勢の交代に直接関係のない第三者的立場の観点からこの卦をどう捉えるべきかを考え、次のようにアドバイスしている。
 避けようもない激変が予測されるとき、衆はなによりも巻き添えをくわないことを第一にすべきで、まずは軽はずみな行動は極力控え、一歩もニ歩も引いて身を低くし、目立たないようにしてやり過ごすべきである、と。さすが!傾聴に値する解釈だ。で?あなたは守?攻?それとも野次馬?


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2007年6月17日 (日)

今週(6月18日~24日)の運気

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 運気が上昇している。いま、自分をここにあらしめているものすべてのものに感謝し、気持を新たにすれば、支えあう友を得て、想うことがおおいに通る。

 火の下に木がある。
 これはいま、火が木という適材を得て、明々と燃え上がり、その火勢を得て鼎(ナベ)のなかでは、生(未完成)だった食材(想い)が水を得てぐつぐつと煮え、神に供し、人びとを養うことができる料理へと化成しつつあることを象徴している。つまり、時勢は変革の混乱を終え、アンダーグラウンドではすでに明るい明日の骨格が作られつつある状況にあることを示唆しているのだ。
 また、そうした状況にあって忘れてはならない重要な心構えを、この卦では〈鼎=かなえ〉と呼ばれる三本の足を持つナベに喩え、物事は、おなじ長さ(力)を持ち、それぞれに役割を異にする三本の足(三者)で支えあってこそはじめて成立し、安定を得ることができるのだということもメッセージしているのだ。
 さらに、木と火と水という協調しあえない三つの要素が支えあって物事を作り上げていくには、ともに認め合うナベという器(法/ルール)が必要不可欠であることをも暗示している。すなわち、いま、戒めるべきは調子に乗って独善に陥らないこと。想うところは違っても目指すところはおなじ仲間を大切にすること。そのようであれば万事、順調にうまくいく。

 ナベの足が折れ、料理が散乱する。実力以上のことをしようとしたからだ。良くない。身の程をわきまえてあくまでも謙虚に対処することだ。


 こころある人はこの卦を見て、物事は筋道を経て完成するものだということを悟り、与えられた立場を守り、自らの役割を果たすことに専心するように努めたという。

 三という数字はマジカルな意味を象徴している。すなわち、一点では点に過ぎない。二点を得て線になり、三点を得てはじめて平面が得られ、思うことを形として他者の目にも見えるものとすることができる。つまり、想いという〈点〉は、他の二点の協力を得てはじめて具体的な形になるのだ。
 商いは作る人と売る人と買う人がいて成り立ち、立法、司法、行政の三つが整ってはじめて〈国〉になる。それを三位一体といった。自分の想いというものも、一人で実現するのではなく、それを認めてくれる人がいて、はじめて広く人びとに供されるものとなるのだ。独り善がりでは何もできない。大事なメッセージだ。
 なお、易占いの先達たちによると、この卦は盛運には違いないけれど、三本の足は男女の三角関係について警告するものだともいう。心当たりのある人は要・注意。


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2007年6月10日 (日)

今週(6月11日~17日)の運気

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 小さな想いなら叶う。西の空に黒雲が湧き出ているが、まだ雨を降らせるまでには至っていない。想いの大きさに較べて天の気はまだ幼く小さい。しかし、その気はかならず成長する。吹く風を信じて、いまは焦らず、自分を磨いて力を蓄えるときだ。

 天上を風が渡る。
 その風はやがて雲を集め、雨をもたらす。天上を吹き抜ける西風は、ほどなくおおいに為す時〈チャンス〉がやってくることのなによりの証拠である。その確信は疑うべくもない。
 しかし、風は、同時に雨の降る日がまだ遠いことをもメッセージしている。しかも、風は気の流れである。それはその想いが実質を伴うまでにはまだ至っていないことをも告げているのだ。すなわち、希望はある。想うところも正しい。しかし、まだその日ではない、のだ。小さな想いなら叶うというのはそういうことだ。
 そして人はそんなときがいちばん苦しい。それを卦辞では『密雲不雨』=厚く雲が垂れ込めているのにまだ雨が降らない空模様に似た、陰うつで苛立たしい気分と表現している。急いては事を仕損じる。空しく天上を吹く風に悪態でもつきながら、気を長くして待とうではないか。

 独り踏ん張り、はやる人びとを抑えようとして傷つくことになるが、やっていることはただしいのだ。まごころを尽せば人の助けもあって、受けた傷の痛みも去り、恐れや不安も消えてことなきを得る。
 ついに密雲は雨となって万物を潤し、月が満ちるように志しは達成された。まごころを尽し、がまんを重ねてきた結果だ。しかし、道立木はかならず欠ける。欲を負ければ危機の陥る。


 こころある人はこれを見て、いまだ自分の想いを表に出すときではないことを知り、さらに力を磨き、蓄えることに専心したという。

 この卦を〈小畜〉、少しく蓄えるとしたのは、六つの爻(こう)のなかでただ一つの陰爻(下から四番目の爻=女)が正しい位置(偶数位)にあって、取り囲む五つの陽爻(男)のはやる気持を抑え、ことを成功へと導くキーマンとして働いているからだという。
 易の陰陽は儒教の影響を受けて、〈陰〉は従属するもの(女性、妻、部下、月)、〈陽〉は主導するもの(男性、夫、君子、太陽)を象徴するものと解釈されていて、この卦は、故事に「柔よく剛を制す」というがあるように、女性(妻、部下)がはやり立つ男(夫、上司)を制御してバランスを取ろうとする姿に比類されていた。
 今週は、じぶんのただしい志が、じつは陰のエネルギー(攻撃より守備、激しさより優しさ)によって支えられていることを注視して、陰の役割を果たしてくれているパートナーのいうことによく耳を傾けること。道はそこから開ける。


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2007年6月 3日 (日)

今週(6月4日~10日)の運気

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 いまは進むときではない。井戸の水を汲むために釣瓶を降ろすが、綱が短く、あと少しのところで水面に届かないのだ。しかも、釣瓶が壊れた。良くない。まずは、身のまわりの溜まっている余計なモノや心のなかに滞っているいらざる知識を取捨選択して心身の浄化をはかるのが先だ。
 木の上に水がある。
 これは木が地中に根を張って、枝葉の末端にまで水を吸い上げて命を養う姿を象徴している。人は命を養う水を井戸から汲み上げる。それゆえ、井戸の周りにはいつも人が集まり、また去ってもいくが、しかし、井戸はいつもそこにあって動かず、常に清涼な水をたたえて増えもせず減りもしない。水は命である。ところが水を汲み上げるための綱が数センチ短くても、人は命を繋ぐことができない。まして釣瓶が壊れればお終いである。最悪である。
 同様に人と人の間でも言葉を欠き、少しでもコミュニケーションを欠けばよかった関係もキレてしまう。危ない。そこで、こころある人はこの卦に断絶の危機を見て、そうしたことが起こらないように、身辺のバグを取り払い、家族や友人たちとのコミュニケーションを密にするのだ。

 水量が少なくてフナぐらいしか住めない。知性がなければつまらないものしか寄ってこない。
 井戸の水は清く冷たく申し分ない。人もそのようであればみんなに喜ばれ、おおいに歓迎されるだろう。


 こころある人はこれを見て、周りの人びとの労をねぎらい、互いに鋭気を養い、助け合っていくことの大切さを再確認したという。

 井(せい)は井戸のことで、古来、井戸は集落の中心にあり、汲めども尽きぬ命の源、知恵の象徴であった。人もよき井戸のようにいつも清涼な水(知恵)を称えているようでなければ良き人も寄って来ず、ましてや信頼を得ることなどできない。井戸の綱が短く、釣瓶が壊れているようではお話にもならない。それゆえ、人もまた、いまある状態に安住せず、自らを省みて、足らざるを補い、常に新鮮な水(知恵・知識)に溢れているように努めることが大切なのである。
 さらに井戸は他の井戸とは関係なく、常にそこにあって動かず、自らの役割を淡々と果たしているように、人も自分を他者と比較したりすることなく、常に自らの道を守り、陰日向なく地道にその役割を果たしていくことが大切なのだということをメッセージしているのだ。
 今週は心身を清掃して、滞っているコミュニケーションを回復することに努めよう。


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2007年5月27日 (日)

今週(5月28日~6月3日)の運気

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 謙虚であれば、願いは叶う。すぐれた資質や才能も謙虚であってこそ、はじめて光り輝くのだ。自分をアピールするということをしないために、はじめは難渋することもあるが、半ばを過ぎれば運が開けて有終の美を飾ることができる。
 地の下に山がある。
 本来、山というものは地の上にどっしりとそびえ立って人を遮り、水を止めて動かないことから、誇り高い不動の志を象徴するものだ。それが地の下に留まってあるのは、優れた資質や才能、あるいはスピリットの持ち主であればこそ、なお、地に埋もれてあることをいとわず、騒がず、泰然と謙虚に留まって動じないものだということをメッセージしている。
 しかし、時が経てば、山は削られ河を埋めて大地が平らになるように、埋もれているタレントや精神もまた、時に洗われて自ずと地の上に姿を現わして、人びとの知るところとなるのだ。
 鬼神は奢り高ぶるものに禍いを、謙虚なものに福を与えるという。人もまたきょう慢なさまを憎み、慎んで奢らぬさまを好む。真に世が求めるタレントやスピリットとはそういうものなのだ。研鑽して謙虚であれ。陽の当たる日はかならず向こうからやってくる。

 苦労を口にせず、誇るべき功績があるのに謙遜して高ぶらない態度に人びとは感動して好意を抱く。そのようにして最後にはその想うところが認められて、リアライズするのだ。


 こころある人はこれを見て、人に対しては差別なくおなじ態度で接し、自らは慎ましく、スピリットやタレントを内にとどめて謙虚に徹するよう努めたという。

 優れたタレントや精神を持ちながら謙虚であり続けるのは難しい。しかし、志を世に問う機を見るのはもっと難しい。なぜなら機を外せばどんなに優れたタレントも報われずに終わるからだ。この卦は、志を死守して謙虚であることに難しさと、機を見ることの大切さについて、いま、改めて再認識して、いつ、その機が満ちてもいいように焦らず自分を磨きながら、とにかくいまは謙虚であれというのだ(ダレかに見られているのかも?)。
 ちなみに、この卦はごらんのように、唯一の陽爻(下から3番目の陽爻=男)が人体でいうと〈股〉に当たる部分にあり、それを五つの陰爻(女)が群がって取り巻いているように見えることから〈男子裸身の卦〉ともいわれ、古来、達者はこの時機、男女を問わず異性問題には気をつけるようアドバイスしたという。おのおの方、ダイジョ〜ブ、ですよねえ。


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2007年5月20日 (日)

今週(5月21日~27日)の運気

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 外に向って大きな事業を展開するときではない。内を向いてプライベートな問題を片づけるにはいいときだ。信頼できる人のアドバイスに耳を傾けるといい。
 湖の上に火がある。
 火は上に向う気であり、湖は下に向う気であることから、これはシンクロすべき二つのエレメントがそれぞれに進む方向を異にしており、結果として互いに背きあっている状況を象徴している。大事を行なうにはよくないときであるというのはそのためである。
 しかし、同時に〈火=離〉は明るい知性を持って他に着くという性格、〈湖=兌〉は受けて(着かれて)悦ぶという性格を象徴しており、しかも、下卦の湖の中央の爻(下から2番目の横棒)は陽、上卦の中央の爻(下から5番目の横棒)は陰と、陰陽互いに引き合う性格を共有していることから、表面では背き合うように見えていて、じつは内面に一致するものがあることを示唆している。たとえば天と地、男と女のように陰陽、正反対の極にありながら、互いに求める気持を共有しているように、だ。
 しかも、そうして相反するものが内面に共有しているものの働きによってはじめて万物が生じるのだ。
 この事実は、物事というものは、表面に現れた事象だけに捉われていると深層にある重要な事実を見落とすことになる。物事というのは表面だけを見るのではなく、相反するものの中にさえ、通じ合うものがあることを見ようとする深い洞察があってはじめて物事の真実に触れることができるのであり、それは志を実現するために欠いてはならない重要な作業であることを示唆しているのだ。今週は表面の事象に捉われず、洞察を深くし、相反するものの内側にあって共有しているものに注目して行動するように心掛けることだ。そうすれば間違うことはない。

 性格を異にする女性二人が同じ屋根の下で同居すれば互いにいがみ合い喧嘩をすることになる。自他の違いを認めて相手を許し、共にわが道を往くようにすればトラブルは解消する。


 こころある人はこの卦を見て、相反するものの中にさえ共通するものがあることを知り、想うところは同じであっても、行いにおいては他に同ぜず、自分のスタイルを通すように努めたという。

 漢字辞典には無いこの文字は〈けい〉と読み、家庭内や仕事場で人間関係がぎくしゃくし「内輪もめがある状態」、あるいは自身の内面に激しい葛藤があることを意味する言葉だ。人は背きあって孤独に陥ったとき、猜疑心に飲み込まれてほとんど妄想を見るほどに惑わされる。しかし、そういうときほどじつは冷静さが要求されるのであり、クールになって相手の心情を思いやってみれば、凝り固まった憎しみのからの中に自分のそれとまったく同じ思いがみえてくるはずだ、とこの卦はいう。だとすれば、あとは度量。弓を収め、こころを開いて手を差し伸べるだけの勇気があるかどうかだ。あればハッピー。いずれ、背きあっていてはナニもはじまらない。冷静になってまず足元を固めよ。知恵者に相談し、自分のやり方で、ね。


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2007年5月13日 (日)

今週(5月14日~20日)の気運

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 この週、五月晴れの沖天に太陽があって命を育むすべてのものに燦々とエネルギーを降り注いでいる。想うことがなんであれ、おおいに叶う。ピンライトのなかに浮かび上がった主役のように臆せず、積極的に行動するときだ。しかし、それは天が味方をしてくれているからだということを忘れてはならない。

 天の上に火がある。
 いま、燃え盛る太陽が沖天に昇り、万物に光と熱を与え、その慈愛に満ちた広大無辺な包容力でもってすべてを包み込んでいる。地にあってその恩恵を受けないものはなにひとつない。もちろん、万物の一員である自分も例外ではなく、その行なうところを全面的に受け入れ、そしてバックアップしてくれる。
 想うところを照らし見て、それが私利私欲を満たそうとするものではなく、〈天〉=剛健な精神と〈火〉=輝く知性を両輪として世のため人のためを想うものであれば、単に想うところが叶うというだけではなく、望外な成果を得ることができるだろう。

 大きなクルマに重い荷物を積んだように期待は大きく、責任は重い。そのことを自覚して、その重荷に耐えられるかどうかをいつも確認しながら進めば、問題は起きない。


 こころある人はこの卦を見て、まずは日常の行いの隅々にまで光を当てて検証し、悪しきところは直ちに止め、善きところは延ばすようにして、思い行なうところに一点のかげりもないように努めたという。

 この卦を得たとき、古人は飛び上がって喜び、天を仰いで感謝の意を捧げたという。〈大有〉とはその有するところが大きいという意味。なぜ、大きいか?天のサポートがあって自らの実力以上のものが得られるからだ。
 今週は〈天が付いている事実〉を体感できるシンクロニシティ(アリ得ナ〜イ偶然)と遭遇するチャンスが多いはず。逃さず、そのリアリティを実感・体得して、いつでも呼び起こせるようにトレーニングを。ソ、3月にもあったけれど、重ねるように、天なるフォースを味方につける術を学習するチャンスがやってこようとは!確率的にこんな幸運は天文学的かも。のびのびヤリマショ。


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2007年5月 6日 (日)

今週(5月7日~13日)の運気

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 いま、自分と自分を取巻く状況を甘えず、他者を見るようにクールに見据えるとき。間違っても軽々しく行動しないことだ。人びともまたそうした真摯な姿を観て、信頼し、あるいは慕ってくれるのだ。

 地の上を風が渡る。
 これはあらゆる障害物をものともせず地を渡る風のように、いまが、地の隅々にまで天の法則が行き渡り、法則に合わない企みや小細工がほころびとなって一掃されるときであることをメッセージするものだ。いまが軽々しく行動を起こすときではないというのはそういうことだ。
 まず歩みを止め、こころを虚=空にして我を離れ、いまあるオノが有り様をよく観ること。オノが行いや想い、あるいは願うところ、そして、それらを取り巻いている現状などを、あたかも主人公Aのケースを観るがごとき冷静さをもって仔細に検分し、天の法則(とりあえずナチュラル)に照らして観る必要があるときなのだ。
 なぜなら、天の行なうところは人知では予測しがたいほど自由でありながら、深いところではいささかの狂いもない。ところが、と、卦はいうのである。じつは、人の行なうところもまたそうだからである、と(〜ム、深い)。だからこそ、真摯に己を省み、物事を深く洞察することはきわめて大切であり、また、そのようであってはじめて、自分を取り巻く人びとの信を得、その協力を得て、その行なうところもなし得るのである、と。大いなるかな、観。

 子どもはごく身近なものは見ることができるが、遠くを見ることはできない。そのような見方は子どもなら可愛げもあって許されるが、オトナがそのようであっては恥ずかしい思いをすることになるだろう。


 こころある人はこれを見て、くまなく四方を観て歩き、つぶさに人びとの暮らしや求めるところを観察して、なすべきことを決めたという。

 人や物事を違わず観(見)る目を持つということは大切なことだ。なぜなら、それができれば大きな間違いを犯したり、人生を誤るということはまずないからだ。今週は、行動する前に、周りの状況や自分がしようとしていること、想っていることをよくよくトレースしてみる必要があるというのは、いまが、そうするのにふさわしいときだということだ。この卦では、そうするときの心構えについて、まず、手を洗い、後、祭壇にすすみ出て供物を捧げ、神霊を仰ぎ見て願いごとをするときのような気持でせよとアドバイスしている。人生では飛ぶ前に見ることが大事なときもあるのだ。いまがそのときだ。


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