ニュー・エイジの朝
ただ本文の方は、やめるつもりはありませんが、しばらくのあいだ、ひょっとして愉しみにしてくださっているかもしれない方々には申しわけありませんが、この頃よりもっと不定期になることを、この際、お知らせしておいた方が、よいかなと。
HPなるものを3年やってみてわかったことは、ぼく的には、片手間にできることではないということでした。気分的には週刊誌の仕事をしていたときとほとんど同じ、疾風のごとく過ぎていく日々とがっちりシンクロしながらリアリティを観ていくことが必要で、おかげさまで修行にはなりますが、つまりは他のことができないわけです。他のことって本来、そっちがメインであるべきものなんですけどね。
参りましたね。霞もだんだん薄くなってきますしね。で、試行錯誤のあげく(重なる不定期とも関係していたのですが)今後は、ど〜してもいま、ここで、感じてほしいと思うこと、たとえば、こんな風に、です。
してはいけないというから、しないのではないのです。
したくないから、しないのです。
しろというから、するのではないのです。
するとキメたから、するのです。
これはおそらく人としてのプライドの問題ではなかろうかとおもわれます。
ンなとき以外は、日常をいったん、本来の方をメインに戻すことにしたわけです。ご理解を。明けてみれば心の荒野、グランド・ゼロ
ところで、霞が薄くなってきたこととはまったく関係ないのですが、いま、ふつふつと感じているのは、少なくもぼく的には予想だにしていなかった《ニュー・エイジ》=新しい時代の夜明けです。夜明け前の長かった闇のなかで、ナニが起きているのかはっきりしないままに、ツナミに足元をすくわれて、為す術もなく押し流されていくかのように、あらゆるものの意味や価値が善くも悪くもシカとしたその拠り所を失って果てしなく相対化し、
「あなた、それが姑に向かって言うことですか」
「く、く、く‥‥申しわけありません、お義母さま、どうかお許しくださいませ。」
リアリティを失ってバラバラに飛散していくかに見えた混沌の正体は、破壊と創造の極みで踊るダンシング・シバ。
ど〜やら、過去、〈人間〉が営々として築き上げ、それぞれの気持の拠り所とも絆とも、あるいは人の根源的な自由を縛る不条理ともしてきたありとあらゆるものの意味、義理人情とか分際とか道徳とか哲学とか思想とか呼ばれてきたものの一切合切をジューサーにぶち込んでスイッチ・オン。
「なんだって?あんたのバカ息子とくっせ〜ジジィとかわいい孫の面倒を見てやってんのはだれだと思ってんのよ。わたし、帰る。」
「まあまあ、ごめんなさい。たしかに言い過ぎたわね、く、く、く」
ほとんど精神のジェノサイドといえるテッテ〜的で、情けも容赦もない破壊だったのではないでしょうかね。
明けて、眼前に広がって見えたのは、あらゆるものが趣味化し、骨董と観光とオタク的な思い込みの対象としての意味以外の意味のすべてを破壊されて文字通りジュースのように均質化した文化遺産としての形骸だけが新しい時代の風に吹かれて死屍累々と横たわっている荒野。あんぐり、ですねえ。
そして、いっちゃいましょうね。なんと!壮絶な破壊のなかで生き残ったのは、《法》と《お金》だけ、でしたよねえ。
〈ニュー・エイジ〉つうからラブ&ピース、いよいよ人間の時代が始まるんだと、その夜明けはかって人類が見たこともないほどビューティフルにちがいないと夢見て生きてきたんですがね。開いた口が塞がらないというか、絶句というか、人間味などとはおよそ関係のない《法》とそれ自体はなんの意味も持たない《お金》だけが絶対的な力を持つ時代なんて、すんげぇじゃありませんか、たしかに史上初、これほど徹底した破壊の後の、身も蓋もないあからさまな精神の荒野をかって人は歩いたことがあるんでしょうかねえ。おそらく、ないんじゃないでしょうか。
《法》を守って《お金》を稼いで、ホリエモンは向こう側にこけちゃいましたけどね、それ以外のことからは一切自由、ど〜生きようが自己責任。お好きなように、ということですからね。これほどドライというか、無意味というか、これはまた、すごいことですよ。
明日へ
しかし、であるからこそ、です。どのように生きるかが問われるわけです。そして生き方によって、その人がど〜いう人間なのかが、まさしく身も蓋もなく100パー丸ごと現われてしまうわけです。(やっぱヒンだねという人もいますがね、ま、思い思いのヒンとでもいっておきませうか)いやいや、昔は身分とか慣習とかがあって、それがまた突っかい棒になったり、いろいろいいわけのネタにもなったりしたわけです。しかし、これからの時代、ニュー・エイジは、なんたって自由に好きなように生きていいわけですから。しかも、老若男女人種の違いに関係なくもの皆おしなべて人=個としてイコールのパラレル・ワールド(多次元世界)ですからねえ、いいわけも突っかい棒も一切ナシ。くどいけど、自分の想い、自分の選択、自分の一挙手一投足が、まんま、ダイレクトに、はげしくいまある自分そのものとして歩いたり坐ったりしているわけですからね。
気取っている人は気取るのが好きな人でしょうし、気取ってない人は気取るのが好きではない人でしょう。ブランドで着飾っている人はブランドが好きな人でしょうし、ブランドを身につけていない人は、買えないのか、あえて買わないのかは分りませんが、是非ともブランドで着飾りたいとは思っていない人にちがいないわけで、その有り様がそのまま、その人なわけで、これはきっついといえばきっついですよね。
しかし、そんな時代の方が、いっそ潔いと思う。思えば、むかし南の島の酋長が〈蛙の皮〉(「パパラギ」)と呼んだドル札が、いまやカミに等しい時代なんてじょ〜だんみたいだけど、そのバカバカしさを差し引いても、いままでのどんな文明よりもマシだといえるかもしれない。だってこれまでのどんな時代よりも自由なんだ(イェ〜イ!)し、孤独には違いないけれど、新たな絆を生み出して織り上げていく愛の泉(ヒュ〜ヒュ〜)が涸れたというわけじゃありませんからね。新しい時代の旅立ちとしてはじょ〜と〜じゃん?
なに、自家用ジェットで、若い子連れてベガスへ遊びに旅立ったって?
そんな荒野だからこそ、なお、うつくしく生きたいと思う。ときに、うつくしく生きた人びとを求めて、失われた遺産を掘り起こして学んだりもしながら、でき得る限り、うつくしい日々を一日一日と重ねて生きていきたいと思う。そしてそれだけが夜明けは無惨だけれど、新しい時代《ニュー・エイジ》をビューティフルな時代にしていく唯一の道ではないかと思う、し。え?ナニがビューティフルかって?それって人それぞれじゃん?
坐って見るには満開がいい。
そぞろ歩きには散りはじめがいい。
な〜んて、ではまた。卦はちゃんと立てていきますからね、おのおの方も良き旅を。ANOTHER WAY.
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