2006年4月11日 (火)

ニュー・エイジの朝

 卦は今後も毎週かならず立てていきますから、お役に立てていただければ幸いです。

 ただ本文の方は、やめるつもりはありませんが、しばらくのあいだ、ひょっとして愉しみにしてくださっているかもしれない方々には申しわけありませんが、この頃よりもっと不定期になることを、この際、お知らせしておいた方が、よいかなと。

 HPなるものを3年やってみてわかったことは、ぼく的には、片手間にできることではないということでした。気分的には週刊誌の仕事をしていたときとほとんど同じ、疾風のごとく過ぎていく日々とがっちりシンクロしながらリアリティを観ていくことが必要で、おかげさまで修行にはなりますが、つまりは他のことができないわけです。他のことって本来、そっちがメインであるべきものなんですけどね。

 参りましたね。霞もだんだん薄くなってきますしね。で、試行錯誤のあげく(重なる不定期とも関係していたのですが)今後は、ど〜してもいま、ここで、感じてほしいと思うこと、たとえば、こんな風に、です。

 してはいけないというから、しないのではないのです。

  したくないから、しないのです。

 しろというから、するのではないのです。

  するとキメたから、するのです。


 これはおそらく人としてのプライドの問題ではなかろうかとおもわれます。

 ンなとき以外は、日常をいったん、本来の方をメインに戻すことにしたわけです。ご理解を。

明けてみれば心の荒野、グランド・ゼロ

ところで、霞が薄くなってきたこととはまったく関係ないのですが、いま、ふつふつと感じているのは、少なくもぼく的には予想だにしていなかった《ニュー・エイジ》=新しい時代の夜明けです。 

 夜明け前の長かった闇のなかで、ナニが起きているのかはっきりしないままに、ツナミに足元をすくわれて、為す術もなく押し流されていくかのように、あらゆるものの意味や価値が善くも悪くもシカとしたその拠り所を失って果てしなく相対化し、

 「あなた、それが姑に向かって言うことですか」

 「く、く、く‥‥申しわけありません、お義母さま、どうかお許しくださいませ。」


 リアリティを失ってバラバラに飛散していくかに見えた混沌の正体は、破壊と創造の極みで踊るダンシング・シバ。

 ど〜やら、過去、〈人間〉が営々として築き上げ、それぞれの気持の拠り所とも絆とも、あるいは人の根源的な自由を縛る不条理ともしてきたありとあらゆるものの意味、義理人情とか分際とか道徳とか哲学とか思想とか呼ばれてきたものの一切合切をジューサーにぶち込んでスイッチ・オン。

 「なんだって?あんたのバカ息子とくっせ〜ジジィとかわいい孫の面倒を見てやってんのはだれだと思ってんのよ。わたし、帰る。」

 「まあまあ、ごめんなさい。たしかに言い過ぎたわね、く、く、く」


 ほとんど精神のジェノサイドといえるテッテ〜的で、情けも容赦もない破壊だったのではないでしょうかね。

 明けて、眼前に広がって見えたのは、あらゆるものが趣味化し、骨董と観光とオタク的な思い込みの対象としての意味以外の意味のすべてを破壊されて文字通りジュースのように均質化した文化遺産としての形骸だけが新しい時代の風に吹かれて死屍累々と横たわっている荒野。あんぐり、ですねえ。

 そして、いっちゃいましょうね。なんと!壮絶な破壊のなかで生き残ったのは、《法》と《お金》だけ、でしたよねえ。

 〈ニュー・エイジ〉つうからラブ&ピース、いよいよ人間の時代が始まるんだと、その夜明けはかって人類が見たこともないほどビューティフルにちがいないと夢見て生きてきたんですがね。開いた口が塞がらないというか、絶句というか、人間味などとはおよそ関係のない《法》とそれ自体はなんの意味も持たない《お金》だけが絶対的な力を持つ時代なんて、すんげぇじゃありませんか、たしかに史上初、これほど徹底した破壊の後の、身も蓋もないあからさまな精神の荒野をかって人は歩いたことがあるんでしょうかねえ。おそらく、ないんじゃないでしょうか。

 《法》を守って《お金》を稼いで、ホリエモンは向こう側にこけちゃいましたけどね、それ以外のことからは一切自由、ど〜生きようが自己責任。お好きなように、ということですからね。これほどドライというか、無意味というか、これはまた、すごいことですよ。

明日へ

 しかし、であるからこそ、です。どのように生きるかが問われるわけです。そして生き方によって、その人がど〜いう人間なのかが、まさしく身も蓋もなく100パー丸ごと現われてしまうわけです。(やっぱヒンだねという人もいますがね、ま、思い思いのヒンとでもいっておきませうか)いやいや、昔は身分とか慣習とかがあって、それがまた突っかい棒になったり、いろいろいいわけのネタにもなったりしたわけです。しかし、これからの時代、ニュー・エイジは、なんたって自由に好きなように生きていいわけですから。

 しかも、老若男女人種の違いに関係なくもの皆おしなべて人=個としてイコールのパラレル・ワールド(多次元世界)ですからねえ、いいわけも突っかい棒も一切ナシ。くどいけど、自分の想い、自分の選択、自分の一挙手一投足が、まんま、ダイレクトに、はげしくいまある自分そのものとして歩いたり坐ったりしているわけですからね。

 気取っている人は気取るのが好きな人でしょうし、気取ってない人は気取るのが好きではない人でしょう。ブランドで着飾っている人はブランドが好きな人でしょうし、ブランドを身につけていない人は、買えないのか、あえて買わないのかは分りませんが、是非ともブランドで着飾りたいとは思っていない人にちがいないわけで、その有り様がそのまま、その人なわけで、これはきっついといえばきっついですよね。

 しかし、そんな時代の方が、いっそ潔いと思う。思えば、むかし南の島の酋長が〈蛙の皮〉(「パパラギ」)と呼んだドル札が、いまやカミに等しい時代なんてじょ〜だんみたいだけど、そのバカバカしさを差し引いても、いままでのどんな文明よりもマシだといえるかもしれない。だってこれまでのどんな時代よりも自由なんだ(イェ〜イ!)し、孤独には違いないけれど、新たな絆を生み出して織り上げていく愛の泉(ヒュ〜ヒュ〜)が涸れたというわけじゃありませんからね。新しい時代の旅立ちとしてはじょ〜と〜じゃん?

 なに、自家用ジェットで、若い子連れてベガスへ遊びに旅立ったって?

 そんな荒野だからこそ、なお、うつくしく生きたいと思う。ときに、うつくしく生きた人びとを求めて、失われた遺産を掘り起こして学んだりもしながら、でき得る限り、うつくしい日々を一日一日と重ねて生きていきたいと思う。そしてそれだけが夜明けは無惨だけれど、新しい時代《ニュー・エイジ》をビューティフルな時代にしていく唯一の道ではないかと思う、し。え?ナニがビューティフルかって?それって人それぞれじゃん?

 坐って見るには満開がいい。

 そぞろ歩きには散りはじめがいい。


 な〜んて、ではまた。卦はちゃんと立てていきますからね、おのおの方も良き旅を。ANOTHER WAY.

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2006年2月21日 (火)

大きな勘違いに決着

 ひきつけたままプッツン。いけませんよねえ。平にご容赦を。以来、なんとか話題を変えて、と、やってみたのだけれど、やっぱり〈大きな勘違い〉といっときながら、どう足掻こうと糞詰まり(ゴメンなさい)ではあまりに申しわけが立たない。やはり、出すべきものは出さないと先には進めないわけで、要するに、つぎのふたつのことをいいたかったわけです。

民の国?国の民?

 ひとつは、日本国は懲罰的な制度を設けてニートフリーターに存在しぬくくしようとしていることについて、大きな勘違いだと言いたかったわけ。なぜなら、改めていうまでもないけれど、この国のばあい、民のために国が存在しているわけで、国のために民が存在しているわけではないからです。

 仮に、そんな当たりまえのことがわかっていれば、ニートフリーターといった存在を制度的に取り締まろうなどという発想はあり得ないはずだからです。だってそうでしょう。国がどう考えるかという前に、民の考えがあるわけです。縷々陳述してきましたように、仮にニートフリーターが社会に対して具体的なご迷惑をかけていないのなら、その範囲内でなにを企んでいようがいまいが民たるヤカラの勝手でしょう。国が関与していい問題ではないでしょう。きれいにいえば自由でしょう。

 マスメディアもそうです。ニートフリーターを市中からあぶり出して社会問題化し、市民の声を代表してあげつらおうなんて、トンでもない勘違いです。

 メディアはむしろ、そうした国の野望の矢面に立ってニートフリーターの民たるものの権利や自由を擁護するのが、因って立つところの理由でしょう。

 国がニートフリーターに対してできることがあるとすれば、かれらが自由を投げ打ってまで積極的に参加したくなるような社会をどうしたら、つくれるかを考え、現実化することでしょう。またメディアは情報量において、かれらのネガティブな側面と同じだけあるポジティブな側面にも公平にスポットを当てて、ときに勇気づけ、夢を後押しすることでしょう。

 現行の憲法ができる前まで、おそらくは国が民を支配する律令国家ができて以来、国と民の関係について、民の方も、やむなくではあったにしろ国のための滅私奉公を当然のように認めることを常識として生きてきたことはたしかな事実です。しかし、その根本が変っているのです。ところが、国もメディアも、あるいは多数といえる民も、その根本のところがまったく変っていない。アタマのなかはあいかわらず、国(国体と呼ばれている)の民のまんま、民の国になってない。大きな勘違いの一つはそこです。大きな勘違いの一つはそこです。

増えていないのでは?

 もう一つは大きな勘違いとはいえない鴨しれないけれど、ニートフリーターが急増した、あるいはしつつあるという根拠を支えるデータがそもそも疑わしいのではないかということです。そうではなくて、いまならニートフリーターに仕分けされてたかもしれない種類のヤカラ、日本でいえば武士の時代に、文字通り〈浪人〉と呼ばれた若者たち、明治から大正時代にかけて〈天竺浪人〉と呼ばれた若者たち、あるいは大正から昭和初期に〈モガ・モボ〉、近過去には〈フーテン〉といわれたりした同種の若者たちは、もちろん、そのときどきの社会情勢によるけれど、人口比率的には、むかしから現在程度はいたのではないか、ということです。

 その理由はコンピュータの発達です。西武の国土計画の見えない手書きと印鑑の世界がコンピュータの出現によって抵抗し難く白日の基に曝されることになったのと同様に、本籍地を離れたまま、あるいは学校を離れたまま、どこに消えたのか、郵送と手書きのコピーを照合する時代では掌握しきれなかった若者たちを、コンピュータの出現によって、いとも簡単に追尾できるようになったばかりではなく、その実態をかなりな精度で掌握できるようになったというだけのことではないか、と思うのです。それは、増えたといって、それを裏付けるデータはほんのここ数年分しかないという事実がなによりも雄弁に物語っているといっていいのではないでしょうかね。

リーヴ・ミー・アロ〜ン!

 つまり、ニートフリーターも急に増えたというのは大いなる勘違いで、増えたわけではなく、むかしからそれに類するヤカラはいつの時代も同程度はいた、というわけです。だとすれば、これは、いまの国の施策が悪いからニートフリーターが増えたというわけではないということ、になりますですよね。これは小泉先生にとっても受け入れやすい見方ではないでしょうか。すなわち、いま急に国の施策が悪くなったわけではなくて、むかしから悪かったのだ、と。いえいえ、もちろん、これはニートフリーターの存在が社会悪だとした仮定したばあいの話ですよ。

 そうではなく、ニートフリーターは有益ではないが、社会悪というほどの害もないと仮定したばあいは、国としてはど〜にかする必要はまったくないわけです。国がナニをしようと関係なく、いつの時代にも一定量、排出される規格外人品なわけですからね。それも国が生むわけではありませんからね。責任もないわけです。短く、ワン・フレーズで。

 あ、そう、ニートフリーターは社会に迷惑をかけてない?だったら、好きなように、おやりになったら、いいんじゃないでしょうかねえ。われわがとやかくいう問題ではないでしょう。日本は自由な国なんですから。

 えっ?ホントに?そういったの?コイズミさんが? またまた‥‥ガセネタでしょう。はい、要はそう、放っておいてほしい、と、元はそれだけの話なんですよ。コイズミさん。Another way。BR>

 

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2006年2月 8日 (水)

大いなる勘違い/下

 寒の戻りのきびしさのなかで、衆のあいだに雪国の人びとの苦難を思いやる気持ちが蔓延しているせいか、このところ、衆の気配がキワ立ってケバ立っていない気がする。

 ガソリンスタンドでもスーパーやコンビニでも、衆はさりげなく譲り合い、十分にやさしく、そして寡黙だ。着ているものはじつにまちまちだが、原チャリの独りモンもドパンクなカップルも子連れも爺婆も共通しておだやかで、シャウトしているのは呼び込みと保険のCMとそれがシゴトの芸人さんだけ、お気の毒に、衆の気分は静かに内を向いていて、外に向いては醒めている。

 ねえ、今年のりんご安くて旨くね?灯油高くね?アメリカのオイルメジャーが史上最高の利益を記録したって。バカにしてね?

 衆のなかでナニかが終わったのかもしれない。おのおの方を取り巻く世界はど〜お?ナニか憑物が落ちたような、戦いが終わった後のような、妙に静かな匂いがしません?

 なに?単細胞だぁ? 戦が終ったのは衆じゃなくてめえの方だろダッテ?‥‥ヒ!ヒツレイな!な、なにを根、え?‥‥おめでとう?新聞依存症から解放された人が共通して最初に感じる心的風景だ、とな? 朝っぱらからムカつく記事を読まなくなったおかげで、てめえのこころがケバ立たなくなったから、取り巻く世界もおだやかに見えているに過ぎない、てか? ‥‥たしかに。あり得なくはない、かな。

 だとしても、だ。このごろ、新聞、ラジオ、テレビといったメディアが政府の意向に添って常套手段、あたかも多数の衆がそう思っているかのように装って、ニートフリーターなど、〈積極的に働こうとしない若者たち〉を、一方的に〈ナマケモノ〉とキメつけ(カネがすべての価値観からすればその通りだ)、将来的に社会のお荷物になるネガティブな存在だとして白眼視し、社会から排除(建て前は立ち直る手助けをしよう)しようとする意図がとみに目立つ。そういう意味ではこれもメディア依存症候群経由の神経症状の一つかもしれないが、バカなことをいっちゃいけませんよ。

 じゃ、お聞きしますが、われらがニートフリーターが、将来的な話はまず置いて、ただいま現在、社会に対してどんな迷惑をおかけしているというのですか?たしかにご家族にとっては、ご近所の目を含めてお〜きに迷惑かもしれない。なんたって持ち出しなんですからね。しかし、その持ち出された分は僅かではあっても、消費することしかしないわが家のニートフリーター(失礼、フリーターのばやい、大半はぎりぎり自分ひとりのキルクウネル分ぐらいは稼いでるよね)を通じて全額、5%の消費税と共にコンビニやレンタルショップを経由して社会に還流されてますよね。ひょっとして老後の備えに回ったかもしれないおカネが、かれらが存在しているお陰で生きたおカネとして使われている。迷惑をかけるどころか、社会にとってはかれらはベイシカリーにありがた〜いお得意さまではないですか?。その存在にどんな瑕疵があるというんですか?なにか勘違いなさってません?

 第二に、唯一の被害者であるご家族だって、もちろんもちろん、深刻なケースもあるだろうけど、なかには、ご近所の手前、そういっているだけで、かならずしも迷惑だとは思っていないケースだってあるかもかもしれないではありませんか。だってそうでしょ。人がサルではなく人であることの証明であるカルチャー、文化というものは歴史的にニートフリーターのカテゴリーを生きた人びとによって生み出されてきたわけです。

宮沢賢治はニートだった

 日本人が大好きな宮沢賢治だって、いっちゃなんだけどサラリーマンやお役人さんじゃないですよ。知っている人は知っているけれど、かれはその生涯をニートに生き、ニートで終えたんです。

 かれのご両親は主にお百姓を顧客とする質屋さんを営んでいた。カネ勘定などまったく考えず、ひたすら時代の風を喫って美しい夢を織り上げる息子をご両親は財を投げ打って一家で支え、死に水までとった。

 宮沢賢治は社会にご迷惑をかけましたか?ご両親が、お百姓さんから稼いだ利子は、ひたすらお百姓さんに奉仕した賢治を通じて結果的に返された。人とちがったこころを持って生れたわが子、ニートをサポートし続けたご両親の選択は間違っていましたか?

 ふつうに〈就職〉せず、海のモノとも山のモノともつかないわが子たちの途方もない夢見の旅をサポートする親は間違っているのですか?じょ〜だんじゃないでしょ、親としては自分で働いて稼いだカネです。社会に迷惑をかけない限り、ど〜使おうが自由ではないですか。いや、ひょっとして、です。自分は胆をなめるような人生を生きてきた。子たちにはそんな思いはさせたくない。自分ができなかった自由な生き方をさせてやりたい、と、それを生き甲斐としている親御さんだっていらっしゃるかもしれないじゃないですか。でしょ。それにひょっとするといちばん美しいおカネの使い方かもしれない。

ペット飼うより安上がり

 だってマジな話、ニートフリーターの一人や二人、.たとえば、ご両親が公務員だったりしたばやい、年金でも飼えないわけじゃありませんよ。寝かせる部屋はあるんだし、食わせるだけですからね。ヘタをすると上等なペットより安上がりかもしれない。ムリなんかしてないから病気はせんでしょうし、散歩につれていく必要もないしね。うちでは〈夢を飼ってるんですよ〉と自慢していいことでありこそすれ、世間さまから誹られるような筋合いなど鵜の毛ほどもないでしょうが。なんたって夢は成就すれば、衆に還元されるわけですしね。同世代人にとってはライバルがひとり減るわけだし、悪い話ではないですよねえ。

 宮沢賢治はそうして生れた美しい星の一つです。けれど、一つです。われわれの脳のなかにはまさに満天を埋め尽くす星々ようにたくさんの星がある。そして、周知のようにそれ以上に輝く前に燃え尽きてしまった無数の星々がいるわけですよね。そして、そのほとんどが、じつはニートフリーターたちなわけです。カルチャーのなかでも特にエンターテーメントを含むアートな世界は、少なくも霞ヶ関やヒルズには見向きもせず、世渡り上手を〈みんなといっしょに〉競うなんて気もさらさらなく、ひたすら自分の世界、想うところを生きようとするニートフリーターたちのなかから、結果的に恵まれていた才能と、世間の風評に怯まず子らをサポートし続けた親バカたちのガッツと、時代の風のコラボレーションによって新しい星が生み出されるわけです。

 そういう意味では、たしかにお国の方針や価値観に忠実ではないですが、親子ともどもそういう生き方は間違っている、社会から追放しろと、ま、わが身を省みてできないもののヒガミなら共感できる部分はありますが、果たしてメディアがキャンペーンを張らなければならないほどの社会悪なんですかねえ。

 

ニートフリーターもおらず、もの皆、お国のいう通り、いわれた通りに生きている世の中って、たしかにお国にとってはいいかのしれないけれど、衆にとって果たして楽しい世の中といえますかねえ。

フリーターニートこそ希望

 どこの国とは限らず、人類史的にあらゆる地域で豊かになって親たちに余裕ができると、かならずニートフリーターたちが出現します。そしてその時代の新たな文化や価値観を生み出してきた。そしてそれを衆は楽しんだ。戦国時代、茶道を生み出した武野紹鴎や千利休も堺の交易商人の家に生れたニートたちでした。江戸時代、俗世の風俗を題材にして浮世絵という世界を生み出した絵師たちもフリーターでした。かれらこそは豊かさを獲得できた時代がもたらす〈余裕〉であり、新たな〈可能性〉であり、〈夢〉だったわけです。

 もちろん、かれらの大部分は、熊さん八さんに珍味と騙されて酢豆腐を食わされた若旦那のように、ただ消費するだけ、役立たずのまま生涯を終えるのかもしれない。しかし、そんな無数のバカ旦那たちを笑いのタネにしてからかったりしながらも、あたたかく見守りサポートする土壌があって、はじめて人が人たる証拠も生み出されるわけです。

 それをですね、働かんヤカラはけしからん、と、やれ、将来的に社会の負担になるから働け!と、お国が口を酸っぱくするのは分ります。自分たちが采配できるおカネ、税収が上がらりませんからね。しかし、衆や衆の側に立って将来を洞察し、衆のために発言してこそ存在意義があるはずのメディアが、あしたのカルチャーを生み出す卵たちを、働かざるモノ食うべからず(世間が食わしているわけではない、親御さんたちが食わせているのですゾ=念のため)などと、ニートフリーターの存在を社会のバグでもあるかのように俎上に乗せて眉をひそめて見せて世論を誘導し、殺虫剤をシュ〜するように弾劾するというのは、如何なものですかね。それでいて十年一日、あいも変わらずその場凌ぎ、結果、その昔、〈一億総火の玉となってお国のために戦え!死ね!〉と煽って衆を戦争に追いやった〈戦前〉のメディアとどこが変わったというんですかねえ。変わってないんじゃないですか?ああ、だんだんハラが立ってきましたですねえ。あ〜!止まらない。

 ばかりか、およそジャーナリズムの衆の側に立ってあるべき力を持つものたちへの批判精神からあまりにも遠く懸け離れ過ぎているといわざるを得ない。ステイ・ク〜ル、ステイ・クール、あ、あ、メディアは、決して瑕疵がなかったとはいい難い試行錯誤の歴史から一体全体、なにを学ばれたのですかね?ひょっとして昔銀行、今メディアといわれるほどの高サラリーがジャーナリスト魂を堕落させ、あ。あ、あ!ひたすら〈勝ち組〉としての保身へと向かわさせているのではないかと、そこまで!そこまで!うわっ、うわっ〜〜〜〜、ず、ずず、その見識には、ざっ〜ざっ〜、跡形もなく、ハッキリいって〈知〉とは、ざ^ざっ^ざっ〜〈痴〉に近い。だからこそ痛くも痒くもないだろうけれど九牛の一毛にもミリの魂、新聞をやめたのだ。あ〜あ、覆水盆に帰らず。さらに、だ。えっ?えっ?

 

ニートフリーターが、(稼ぎがないから仕方なく)その生き方の結果として、自ら省生産・省消費に徹することで、地球規模で人類の存亡が懸かった焦眉の問題とされている文明悪、地球の温暖化に対して、京都議定書的いえば、CO2削減に貢献する森林的役割を一身に引き受けることで、だれよりも貢献しているという事実は何度もいいたくないからスキップさせてもらうけど、ど〜しても書いておかなければならないことがまだ、ある。えっ?まだあるの?あるあるある!ありゃでか!ステイ・クール、ステイ・クール‥‥。あららら、完全に人が変わっちゃいましたよ。ほらほら、怒りに震えているというより、ほとんど痙攣してますよ。あ、あっ、あっ、このままだとヒキツケちゃいますよ。いいんですか?電話しましょうか?放っといてくれって?えっ?ミリガン?ミリガンがど〜したって?

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2006年2月 4日 (土)

大いなる勘違い/上

 ビュッフェの絵のような冬枯れた風景に騒音を吸着してしとしとと煙る雨。癒されますねえ。こういう日があっても悪くないですねえ。みなさぁ〜ん、最高ですかぁ〜!な〜んていってた人、いましたね。いい言葉なんですけどねえ。サイコウですかぁ〜! ンなわけね〜じゃん。ん?

 拘置所の独房の窓って、鳩がくるんですよ。一応、餌をやってはいけないことになっているんだけど、ま、そういわれてハイということを聞く人たちばかりではないですからね、やる人がいるんですねえ。いっぱい、鳩が暮らしているんです。

 で、新入居者があると、刑務官が教えるわけでもないでしょうに、わかるんでしょうね、鳩。新入居者が迎えるはじめての朝、早速、窓辺にやってくるわけですね。バタバタバタと羽音を響かせて一羽、二羽と寄ってきて、小さな窓辺の鉄格子に止まるんです。鳩としては新入居者が餌をくれる人であるか、くれない人であるか、それだけなんですけどね。愛おしいんですね、これが。で、何回かトライして、あ、これはくれないナとなると、飛んでこなくなる、と、そういう話を聞いたんですけどねえ。スイスの銀行に億単位の隠し金。ホントかね。あり得ない、っうか、あってはいけないことですよね。株主総会で無配当を指弾されて、ぼくは株主のためにいっしょうけいめいやっているのにと流した涙、あれはなんだったんでしょうね。やっぱり鳩にも無配当、なんでしょうかねえ。あれ?雨はあがったようですね。(1/31)

カッコーの巣の上で

 ところで、はや2月。いや〜、件の平成絵巻もさりながら諸事百般、ど〜なっちゃったんですかね?じつは、大晦日、過ぎた一年を振り返って世間話をしているときに、時と場所を共にしていた女性のひとりが、突然、ナニかが降りてきたように、いきなり嗚咽をはじめ、なにごとかと振り返る間もおかず、声を絞り出すようにして喚きはじめる、というできごとがあったんです。

 かわいそうだよ!みんなまっさらで生まれて来るのにさ、バカなオトナたちに囲まれてさ、ぺこぺこぺこぺこアタマばっかり下げてるオトナたちの姿を見て育ってさ、いい子になれなんて、ムリじゃん!ホント、ど〜かしちゃってるよ、この国のオトナたちは。腐ってるよぉ〜。子どもたちがかわいそうだよぉ〜。こんな世の中に生れて來ちゃってさ、あんまりだよ。ひどすぎるよ。もう、いい。バカなオトナたちのことをとやかくいってしょうがないからさ、なんとかして、子どもたちだけは守ってやろうよ。それがこれからわたしたちがしなきゃいけないことなんだよ、きっと。それしかないよ。ホント、ひどいよ。かわいそうすぎるよ。

 おっしゃる通り。ほとんど託宣のようなものだったですね。それでシ〜ンとなっちゃって、一同、元旦を待たず、すっかり気が改まってしまって、そのまま今年がはじまったわけですが、いや〜、絶句ですね。

 日を経るごとに安手の染め物が色落ちしていくみたいに、取り巻く世界がだんだんとリアリティを失っていくというか、国会中継というのも見てみたんですけどね、現実とはなんの関わりもないお芝居を見ているみたいだし、ワイド・ショーも見てみたんだけど、識者たちがいろいろ喚いていることはいるんだけど、なにがいいたくてしゃべってんだか、綿菓子の割り箸ほどの芯もなくて、ただパクパクと口を動かして時間を埋めてるだけというか、まるで現実感覚がなくて、ただただ心の中の虚空が広がるばかりなんです。

 これって鬱の初期症状、ですよねえ。ヤ、ベえと思いました。新聞もそうなんです。たんだんとリアリティを感じることができなくなってきたんです。事実を知るだけなら新聞なんていらないですよねえ。記者魂というか編集者魂というか、読者が、なぜ、それを知らなければならないかを示唆するものがなければ新聞ではないでしょう。キッチリなんていいませんよ、ぼんやりでもいい、衣を被せてあってもいい、ちょっとでも感じられるなら新聞だけど、ここんとこ、プッツリと消えてしまった。残っているのはフォームとフォーマットだけ。ほとんどのっぺらぼうの鬱世界。

 それで、新聞を止めたんです。こっちが鬱だから、新聞も含めて取り巻く世界がリアリティを失ってしまったように見えるだけなのか。それともこっちはふつう、世界が鬱。すっかり魂ギレて、ナニやってんだが、糸の切れたタコ状態で迷走しはじめているのか、ここはキッチリ、見極める必要があると。だって、ですね、仮にこっちが鬱なら、ま、大きく人様にご迷惑をかけるということはないです。がね、もし、仮にですよ。万が一、こっちがふつうだったらですよ、ど〜です?これはホラーですよ。

 ただごとではない。〈カッコーの巣の上で〉の世界、最近では〈マトリックス〉の世界ですよ。昭和時代の前三分の一に見た悪夢の世界ですよ。たいへん。いや、脅かすわけではありません。想定内の話。仮に、そうであるなら、ターゲットにならないうちに、いまからこころして道を見つけ、せめて子どもたちだけは守りながら生き延びる心づもりもせんといかんわけです。ど〜です?せき立てられているような感じが鬱的だって?いや、マジ、こっちが鬱であることを祈りたいね。

 そこでフッと思い出したのがAnother way 〈ホピの予言〉です。

道は二つに分かれている

 いえ、予言というものについては、どんな種類のものであれ、信じるというより、気には留めて遠目に眺めいるというはなはだ臆病な野次馬ですが、〈ホピの予言〉というのはアリゾナの砂漠の岩に彫り込まれていたとかいう、シンプルな岩絵のこと。

 道と思える線の上に複数の人びとが立っていて、そのすぐ先で、線は急勾配で右肩上がりに上昇していく線と、緩やかに下降していく線の二つに別れている。で、上下に分かれた線の上にもそれぞれに人びとが描かれていて、予言とおぼしきものは、それぞれの線の行方だ。

 緩やかに地底に入っていくように下降する線はほどなく勾配のない平たんな直線となって絵の端まで続いており、他方、急勾配で急上昇していく直線の先は、上昇角度は維持したまま、急にジグザグな階段状の折線になっていて、岩絵全体の真ん中を過ぎたくらいのところでプツンと切れて終わっている。その先はなにも描かれていない。

 ど〜ですか。この岩絵が言わんとしていることは、予言の言葉を聞くまでもなく、単純にして明解。だれが見たって、ですよ。上に向かう道をたどる者は、やがて平行感覚を失い、ジグザグに上昇しながらプツンと終わる、と。他方、スローダウンしていく者の道は下方安定に至る、と。ド素人でもそう読めるじゃないですか。

 この予言が世に出たのは通称、ミヤタさん(宮田雪さん)という日本のヒッピー・ムーブメントの本流のなかにいて、70年代なかばには、アメリカ・インディアンたちと徒党を組んで皮太鼓、ドンツク・ドンツク・ドンドンツク・ドンツク・ツク、ナム・ミョ〜・ホ〜・レン・ゲェ〜・キョ〜と平和を祈願してお題目を唱えながら、アメリカ大陸を西海岸から東海岸まで歩いて横断したという日蓮宗の伝統、一人一宗を絵に描いたようなロンゲの苦行僧で、帰ってきては、です。どっか関東近郊の山だと聞いたけど、独力でこつこつと山中に道を切り拓いて、山上にスツーパ、仏舎利塔を建立するという、ナマケモノの多いヒッピー仲間にあってひときわ異彩を放つ存在でした。

 は〜い、げんき?まだ?やってる?はぃ〜、おかげさまで。なんて挨拶を、そう、5、6年は続けたんじゃないですかねえ。どこにそんな強靱な意志があるのだろうかと思わせるようなふわりとしたピースフルなウォーリヤーでした。

 で、80年代の終わりごろでしたか。ひさしぶりに会ったときに、〈ホピの予言〉を世に知らせるためにドキュメントを撮ってきた、と。もともと、映画監督だったんだと、そのとき知ったのですが、もう四半世紀近くにもなりますか。そして、いま、ですよ。

 小泉さんは国会で、さほどでもないようだとおっしゃっていましたが、世にいう〈経済格差の拡大〉。メディアでは、統計的にも〈中流〉が細ってきて〈金持〉の道と〈貧乏〉の道にはっきり二分化してきている、といってますね。週刊誌的には、六本木ヒルズ族に象徴される〈勝ち組〉と、われらがニート、フリーターを含むパートタイマーに象徴される〈負け組〉。

 そりゃそうですよね、小泉さんはバブルから立て直すために、そういう起業家や経営者が喜ぶ施策を実行してきたわけじゃないですか。努力する者は大きく報われる社会、働かざる者は食うべからず。いいんじゃないですかぁ、わたしは当たり前のことだと思いますけどねぇ。かくて世間では「I♥RICH」とピンクで染め抜いたTシャツが売れはじめた。ヘミングウエイに言わせれば「持てる者と持たざる者」の二通りの道がある、と。

 で、この現象をホピの予言で読み解くとど〜なるか。一目にして瞭然。上の道を行っているのはどう見たって〈勝ち組〉であり、下の道を行っているのは〈負け組〉ということでしょう。で、〈勝ち組〉がいく道はやがてジグザグ、プッツンと終わり、〈負け組〉の将来は下方安定に入ると、ど〜しても、そう読めてしまいますよね。〈勝ち組〉が下ってことはないでしょう。だとすると、〈勝ち組〉にとってこれは無気味な予言、ですよね。

 くわえてです。ご承知のように昨秋、いよいよ〈つれづれ〉なんて、遠回しの戯れ言を楽しんで時代ではなくなってきた。はっきりAnother way と改題して行く道を異にしていることを明らかにしてリスタートしようと、もちろんそのとき、ホピの予言も脳裏にあったわけですが、このページをスタートさせて、一ヶ月も経たないうちに、時代の寵児、上の道をうなぎ上りに昇っていたヒーローの足元がいきなりジグザグジグザグ‥‥。ビックリしましたねえ。身が引き締まりましたですね。ど〜思います〜?おのおの方。

 書きためて、前置きが長くなりましたが、いよいよAnother way。つぎは〈大いなる勘違い〉の確信へ。あ、そうそう、友だちに2月から新聞を止めたといったら、おれも止めたんだ、だって。今日は節分。ナニかが始まっている?

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2006年2月 2日 (木)

〈萌え〉を取り戻せ

 失礼。〈萌え〉と書いてきた言葉はローマ字入力でM O E とキーボードを叩くと、一字で〈萌〉に変換する。M O E R U 入力すると、〈萌える〉と変換する。易的にも美しいヴィジョンの一つ、新たな物事や命(志)が先を競うように、さかんに起こり、現われる様を表現した〈萌え立つ〉という言葉でも、〈萌〉一字では〈も〉で〈え〉をつけて、はじめて〈も・え〉だ。〈萌立つ〉とは書かない。

 だからして、M O E と入力したら〈萌え〉と変換してくれないと、もう一手間、E を入力しなければならないし、作業からフィードバックしてくる言霊は〈もえ〜ぇ〉だから、気持ち悪いというわけではないけれど、むずい。

 作る方がそうなのだから、見る方はもっとむずかったかもしれない。お許しくだされ。くわえて、この言葉そのものイメージがよくない。この表現を世に出したのは極寒の冬コミ、灼熱の夏コミ、どこから湧き出てきたのか正体不明、数十万人の若者たちがビッグサイトを埋め尽くすコミケ・オタクの、なかでも妖しいボーイズ・ラブと呼ばれている世界らしい。

 メディアでは、スキャンダラスに増幅してアキバゾク? おかえりなさい、御主人さま?アニメのフィギュアーのご執心のオタクたちが発信源としているようだけど、いずれにしても、出生のイメージがよくない。真っ当な言葉遣いなら、目にするだけで心地悪くて、即、ディレート。いわんや、自分の辞書への登録を許すなんてことは、あり得ない、にちがいない。Hosoyann、止めてよ、と眉をひそめる声が聞こえる。しかし、だ。結論から言おう。

 われわれが久しく忘れていたもの、失っていたもの、そして懸命になって探し続けていたものは、じつはこれだったのではないか。この言葉が表現しようとしている脳の働き、あるいはマインドと言っていいかもしれない。スピリットを震わせるもの、あるいは志を駆り立てるもの。つまり、この数十年来、呵責なく人の心のなかの美しい部分を奪い取って省みない現代社会の精神的陵辱のなかで、二度と立ち上がれないほど打拉がれて〈萎えた〉まま、忘れていたもの、それは〈萌える〉こと、〈萌えて〉生きるというフィーリングだったのではないか、と思うのだ。

 漢和辞典によると、〈萌〉という字は〈草〉と〈明〉の合体文字で、動詞としては〈きざす〉(たしかに妖しい!)〈もえる〉=草が芽(明)を出す様子を表現したものだ。名詞としては〈きざし〉=物事が起こることを予想させるしるし、まえぶれ。〈めばえ〉=草木が芽を出すこと、物事の起こりはじめ、を意味するとある。うつくしいではないか。それに古来、中国では、人民を表す名詞でもあったという。面白いじゃありませんか。その証拠は先の〈萌え立つ〉という言葉だ。この言葉は単に時が来て草々がいっせいに芽吹く様を表現したものではなく、名もない民草がいっせいに立ち上がる様子を表現した言葉でもあるらしいのだ。ビューティフルじゃありませんか。

 そうと省みて、この〈萌える〉という言葉に相当する言葉を探してみたのだが、せいぜいが〈立ち上がる〉という、いかにも左脳的といおうか、不粋といおうか、労働運動的といおうか、いかにもデリカシーに欠ける言葉ぐらいで、これでは精妙な感性の働きを必要とする志など〈きざし〉ようがない。〈めばえ〉ようがないではないか。

 ま、もっとも近い言葉としてはリビドー、フロイドに言わせれば〈性的衝動の基になるエネルギー〉、ユングが〈あらゆる行動の根底にある心的エネルギー〉と定義した言葉がぴったりハマるけれど、いかにもヤボい。〈萌え〉の方が心的風景を表現する言葉としてはなじみがいい。

 〈萌える〉という言葉をなくしたとき、われわれはその言葉で表現していたもの、〈萌える〉という心の働きもなくしてしまっていたのだ。〈萌え立つ〉ことを忘れたのだ。

 もっともオタクたちがこの言葉に託している意味は微妙に違うらしい。ボーイズ・ラブの世界では〈萌え〉は、コミック(シティ・ハンター)が〈もっこり〉と表現していたものに近いようだ。つまり、男の〈もっこり〉は女の〈萌え〉なのだ。ふふふ。かわゆくもいじらしい表現ではないか。しかし、ここには、かっての女たちが持ち得なかった凛とした主体がある。いずれにしても、いまという、無神経に過ぎるという意味で猥雑きわまりない時代にあって、かれらがそこに発見しようとした心の働きが〈燃え〉でも〈立つ〉でもない、その手前の心の働き、まさに〈きざし〉だったとすれば、なんといわれようが、かれらの言葉に対する感性は敬服ものだと思う。よくぞ、その大切さに気づたと思う。

 なぜなら、理屈ではなく、合理でもなく、フィーリングとして心の中に生じる〈きざし〉こそ、まさに物事のはじまり、人と人を繋ぐコミュニケーションを生み出す〈はじまり〉に違いない。

 自らの中の〈萌える〉ものに気づかなかったら、注目することなく捨ててしまったら、あるいは封殺してしまったら、なにも始まらない。〈燃え〉ることも〈立つ〉こともない。そして守り続けてきたスピリットもあるいは志も〈萌え立つ〉地平に至ることはないのだ。

 おのおの方、あなたの中に〈萌え〉はありますか?えっ!バイアグラを処方してほしいだって? ふふふ、話は見えてきたみたいですね。じゃ、バイアグラ抜きでナチュラルに消えかかっている〈萌え〉の芽を大いなる恥じらいを持っていま一度、掻き立て書き立て、大切に育てようじゃありませんか。そう、〈萌え立つ〉までに。

 余談ですが、〈萌え立つ〉と似た言葉に〈燃え立つ〉がありますよね。ところがこの〈燃え立つ〉はその行き着く先に〈燃え尽きる〉という言葉が待っています。例のバ〜ンアウト症候群というやつですかね。はかないですねえ。しかし〈萌え立つ〉という言葉はどこまでいっても〈尽きる〉ということはないのです。〈萌え尽きる〉という言葉はないのですね。〈尽きる〉ことなく〈萌え〉続けるわけです。そういう意味では究極のポジティブを表わす言葉でもあるわけです。今年は〈萌え〉ませう。オタクに感謝。

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2006年1月25日 (水)

結果としての雪国賛歌

 今日は雪国に暮らす人びとの気分がわかるような日だ。ちぎれ雲が足早に流れるまっ青な空の下、日常の雑音を吸い取って広がる静寂の銀世界。グレイト、フル、デッ〜ド。ヒェ〜!雪掻き。フォ〜。世にあれほど不条理な作業はありませんね。ほとんどシジフォスの神話の世界ですね。そう、カミュの。

 山のうえに石を持ち上げ、頂上にくると石は反対側にごろごろと落ちる。そうしてシジフォスはまた石を持ち上げいく‥‥。人生とはもともとそのように不条理なものである、と。ム、イ、ミ。生きてある、実存することに意味などない。フォ〜。ただ、不条理を生きている、ジャスト、それだけ。

 雪掻きをしていると実感しますね。ほとんどシジフォスですね。石と雪の違いだけ。なぜ、石を持ち上げんとイカンのか、雪を掻かんとイカンのか?疑ったら、ジ・エンドですね。フォ〜。同じ本のなかにカミュはこんなことも書いていましたね。

 あるナチと戦うフランスのレジスタンスの若者、いまならテロリストといわれているかもしれませんが、地下トンネルに爆薬を仕掛けて全力で逃げている最中に、右足を先きに出しているのか、左足からなのか?と考えた。その途端に足が動かなくなった。立ちすくむ若者の背後で自分が仕掛けた爆薬が爆発して、かれは死んだ、と。はっはっは。

 それゆえ、ゆめゆめ、疑うなかれ。なぜ、生きてあるか、掻いているのか? などと疑ったら最後、アタマは意味を求めて狂い死ぬ。なぜなら実存していることに意味なんてもともと無いからだ。ム、そのもの。100% 無神論ですね。

 毅然として凛々しいですねえ。禅、的ですねえ。カミュは生きることになんの意味も無いと、ただ生きているがゆえの生老病死、キルクウネルの苦があるだけだという実存の実相が抱えている、きっつい不条理を、神仏に頼らず引き受けようじゃないかといったんですねえ。なぜかと聞くな、人だからだ。たいへんな決意ですねえ。勇敢ですねえ。ほとんどチビりましたですねえ。

 それゆえ、ただ、たんたんと不条理を生きる。雪掻きを生きる。ただそれだけ。フォ〜。雪国の人はえらいですねえ。人として深いところを生きているらしいということを窺わせますねえ。

 これって、南国の人には恐らくぜったいにわかりませんね。思うに、雪掻きを日常にしている人に色恋沙汰は例外として人離れした悪人はいないと思いますね。なぜなら人以外の動物は雪掻きはしませんね。人しかしませんね。いいかえれば、雪掻きという、そこに生きている限りはア・プリオリにしなければならないということが理解できるという意味では、人であることそのものの行為である雪掻き、つまりは不条理を不条理として受け入れて、日常的に〈決して疑わず、ですゾ、ふっふっふ〉体験することによって、その地に生れ育つヒトたちを知らず知らずのうちに人にしていく。つまり、人としてベーシックに持つべきな意識のパラダイムが形成されていく、雪国に暮らすということには、四季の移り変わりがもたらしてくれる美しさ、あるいは雪がもたらしてくれる無為と豊穣以外にも、ひょっとしてそういう〈天の計らい〉を知るものの仕掛けがあるのかもしれませんね。

 そうそう、カミュはひどいこともいっているんですね。かれは結婚というものは、その生涯を肩に石を背負って生きるようなものだ、なぁ〜んてね。たしか小説でしたね。薄暗闇のなかをそれぞれに石を肩にのせた群集がただ無意味にゾロゾロと歩いている‥‥ガビィ〜ン!結婚なんかできないと思いました。

 でも、若かったんですね。浅い理解だったんですね。その証拠にかれは結婚、つまり石を担いでいたんですね。なぜか。かれはそういうことをいいたかったんじゃなかった。結婚は肩に石を乗っけて生きるに等しい苦、あるいは生老病死、キルクウネルという人が人たるゆえんの不条理は不条理として、逃げたりせんと潔く、そのまんまそっくり引き受けたらんかい、おぬし、人じゃろが、と。

 別に逃げてたわけではないけれど、そうまでいうなら、よっしゃ、と決意して雪掻きを引き受けてみたら、そこは世俗の雑音や葛藤が通用しない銀世界。人としてただ雪を掻いているということ、それだけで十分。ナニ者かである、あるいはあろうとする必要なんかまったくなかったんだ。シャリ、シャリと雪を切り落としていく、あるいは運んで滑らす。時がたんたんと流れていく。そうして、ただ生きているがゆえの不条理を受け入れてシャリ、シャリと、疑わず、四季を巡って生老病死、キルクウネルをアルガママ、たんたんと生きていく。セ、ス・ラ・ヴィ〜。それだけで人生は十分すぎるほど美しい。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。雪国に真宗の信者さんが多いの、わかるような気がするなあ。おいおい、そっちじゃないだろうが。

 カミュはこうもいっているんです。ぼくはストックホルムのノーベル文学賞の授賞式の壇上にいたときより、アルジェリアの砂浜で愛する女のお腹にアタマをのせているときの方が何倍も好きだ、って。Another way。‥‥なんでこのような話になったのかなあ。

 この語り口、ぼくの歴史の師である故樋口清之先生の話し方なんです。

 そうそうそう、ついでにこういうこと、ひんしゅくを買うかもしれませんけどね、今年も雪下ろしで、大勢のお年寄りが亡くなったでしょ。あれって、最高のこの世の去り方だと思うんですよね。いい歳をして危険な屋根に上るんですからね。それで、ご当人は自分が落ちて死ぬかもしれないなんてことは、おそらく露ほども思ってないんですねえ。

 なにしろ毎年やってきたことだし、ひょっとして度々、落ちた経験もあったりして、自分は一度だって死んだことはない、と。たしかに死んでないわけですから。落ちて死んだ人は他人、自分はダイジョ〜ブ。そうでなくちゃ60も半ばを過ぎ、ましてや80を過ぎて上ったりはしませんよ。

 で、あ、あっ!と思った瞬間に雪の上。あっ!おじいちゃん、大丈夫!なんてやさしい言葉を遠くに聞きながらチッ、死ぬなんて思わずに霊切れていくわけですね。これゾ、ぽっくり大往生。ぐずぐずと生きさらばえてベットの上、鼻に管、口に管、あるいは痴呆、人間って結構生命力強いもんだねえ、などど妙な感心のされ方を小耳に挟みながら逝くよりも、余程人間らしい死に方じゃありませんか。ご立派です。家族にかける迷惑度合いも不条理の極みといえるほどのバカバカしさ加減も、正月に餅をのどにつまらせて逝く逝き方と東西の横綱級。見事な往生だと思いますよ。

 ま、南国でも毎年、台風の最中にナニを勘違いしたのか、屋根に上ったり、農業用水路を覗きいったりしてお亡くなりになるご老体がいらっしゃいますがねえ。そういう記事を読むと思い出すんですねえ、こんな歌。

 オラは死んじまっただぁ〜、オラは死んじまっただぁ〜、天国へ逝っただぁ〜。お見事!合掌。

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2006年1月17日 (火)

友情とは、生涯、告白されることのない愛である

 近ごろの若者たちは、友だちづくりがあまりジョ〜ズでないと聞く。分るような気がする。

 なんでそんな噺になったのか覚えていないけれど、むかし、毎日のように会っていた年下の、そう、口数の少ない友だちが、めずらしく少年時代を振り返って、こんな話をしたことがあった。

 父親のしごとは転勤が多く、ほぼ2年サイクルで日本列島を転々としたために、ショ〜チュウ時代、同じ学校に2年以上いたことがない、と。

 瞬間、思い当たるところがあって、胸がキュンと痛んだ。

 もちろん、もちろん、かれが胸を痛めたり、そのことで父親を恨んだりしていたわけではない。むしろ、かれはそんな父親をすごく尊敬していたようだし、ふつうよりもずっと深く愛していた。その証拠は、かれが小遣いを使えるようになったとき、最初に買ったのがスクーターだったことだ。

 以前、かれは、子供のころに父親が〈ピジョン〉という日本最初のスクーターに乗って出かけていく姿がとても眩しかったという話をしたことがあった。そんなわけでスクーターを手に入れたかれは本気でうれしそうだった。うれしさのあまり、メットをかぶらず(当時は義務ではなかった)、額を風にさらして走ったために、思いがけず、アタマが割れるように痛いといって七転八倒しながら笑っていた。申し分のないいいヤツだった。

 しかし、かれ自身の想いはともかく、幼い時代から知らない土地を転々として、同じ場所に2、3年以上いたことがないという体験が、こころの形成に影響を与えないはずはない。ぼくも体験があるのだけれど、ショ〜チュウ時代の転校ほど、恐ろしいものはない。それは気風も方言も違うサルの集団にいきなり一匹で放り込まれるようなものだといえる。それに子どもには情けも容赦もない。そんな体験を2年ごととにくり返すのだ。

 くわえて新しい場所で、すごく気が合った友だち(異性の友だちもと〜ぜん含む)と巡り会ったとしても、かならず2年ほどで別れなければならないという親(組織)の都合でもたらされるア・プリオリな不条理は、一度二度なら諦めもつこうが、想像を絶する。かれはスケベエなかったから耐えられたのかもしれないけれど、ぼく的にはおそらくムリだ。少なくともスクーターは買わないだろう。

 しかも、かれは竹のようにまっすぐだった。そんなハリポタ・クラスの少年時代をキレずマガらず、ひょっとして小ザルたちの洗礼を何度もくぐり抜けているうちに、どこに移り住もうが、常に控えめに正しく、正直であることがニューカマーが取るべき最良のガードだと知って、それが身についていたのかもしれない。

 かれはいつも控えめに笑い転げ、控えめに怒気をあらわにし、けっしてハズすことがなかった。一度だけ、学生時代の話から、ギターを取り出し、荒々しく掻きむしりながら、ディランをシャウトしたことがあって、思いがけない側面を見た思いがしたことがあったが、そのとき以外はつねに絶妙のバランスを生きていた。

 だが、ひとつだけ気になることがあった。出会ったころ、かれははまだ学校を出たばかりだというのに、話からして、学生時代は、しょっちゅう熱くつるんでいて、魂を分かち合うほど仲がよかったらしいと想像できる友人たちにほとんど会おうとしていないことだった。同じ街を生きているのに、あえて連絡を取ろうともしていないらしかった。自分を省みて解せないことだった。

 もちろん、それだけではない。接していて、ほかのソウルメイトといえる友だちには感じたことのない奇妙なさびしさを感じていたのだ。そう、想像するに昔の人が〈戦友〉という言葉で表現していた感覚、ソウルを感じなかったのだ。断っておくけれど、若いころには、友人としてのこころの証を求めて昼夜を分かたず何十時間もつるむという確認の仕方をする向きもあるけれど、そういうのは好みではなかったし、また、ここでいうソウルというのは、そんな方法で確認しあえるものではない。それは直感的に感じるものだ。そして時間に比例して深まっていく想いだ。

 ショ〜チュウ時代の転校の話を聞いて腑に落ちた。おそらく、かれは友を深く愛することに恐れを抱いていたのだ。もちろん、もちろん、かれが愛を知らないわけではない。ひょっとして家族でそういう良きニューカマー的生き方を実践していたのかもしれないが、盆暮れにはかならず家族の元にかえっていたし、口にはしなかったけれど深く親兄弟を愛している様子は見て取れた。また、つるんでいるその瞬間は、ビー・ヒア・ナウ、深い情〈萌え〉に満ちあふれていた。

 だが、ショ〜チュウ時代の転々生活は、物心がつかないうちから、かれに家族以外の人間、つまり新たに出会った友だちを深く愛し、結果として深く傷くという苦い体験を何度も強いたにちがいない。つまり、2年ごとに根を引っこ抜かれるという体験は、その恐怖を切り抜けるスマートな処世術を身につけることの代償として、友を深く愛するという情動を奪ってしまったのかもしれない。精神分析的にはトラウマという言い方をするよね。

 話を聞いて、もちろん、おせっかいなぼくとしては黙ってはいられず、ほとんど友だちの人生にかかわる重大発見をしたように、その、かれが気づかず抱えこんでいるトラウマの話をした。そしてトラウマを乗り越えて、別れを恐れず友だちを愛することの重要さを口を酸っぱくして説きまくった。

 ま、早い話が、もっとも深く愛してくれよ、と、はずかしげもなく世界の中心で叫んでいるようなものだよね。ふふ、なんたって、どんなに愛し合い、きつく抱き合っても肌の温みや汗を超えて溶け合うことができないことがゼツボウ的にせつない時分の話だからね。ホット!ホット!だったわけさ。

 かれはそのおせっかいをあからさまに拒否することはしなかったけれど、受け入れたわけでもなかった。というより、そういう愛を必要とはしていなかった、あるいは恐れていたというべきかもしれない。なんだ、早い話が振られただけじゃないかって?

 残念ながら、その通りだ。しかし、近ごろの若者たちが友だちづくりがジョ〜ズでないという話を聞いて、ふと、かれを思い出したのだ。

 転勤はなくとも、コミュニティとしての絆が崩壊して人の離合集散が常態化し、人間関係が希薄化していくという生息環境の激変のなかで、子たちがすくすくとこころを延ばし、豊かな情動を育んでいくのに必要な、いわゆる〈巣〉といえる安定した環境が奪われ、いきなりサル群集の身も蓋もないリアリティのなかに放り込まれるという体験をするなかで、ほとんどの子どもたちが、まだ物心つかないうちから愛して傷つくという体験を重ね、結果的に愛することへの深い恐れをトラウマを抱え込んでしまったのではないか。そして物心がついたころには、すでに深く愛する、いまの言葉でいえば〈萌え〉を翼を広げて延ばしていくという感覚を失くしてしまっているのではないか。飛ぶことを知らない鳥。ために、友だちづくりが苦手になってしまっているのではないか。

 もちろん、そうと気づいているようならトラウマではないわけで、いかがじゃな?改めてつくづくと子ども時代を省みて、思い当たるところのありやなしや。

 友情というのは、たとえていえば、生涯、告白することのない愛だといえる。損得や見返りを求めて成立するものではない。きっかけは〜、なぜか気が合うとか、学ぶところが大きいとか、いっしょにいると楽しいとか、だれもが知っているささいな〈萌え〉だ。そして何度か出会っているうちに、思いがけなくうちなる〈萌え〉に気づく。そして、かけがえのないものであることにも気づく。生意気盛りには、そのかけがえのなさにおいて、親兄弟のそれなんか出てしまった屁のようのものにさえ思えるくらい、〈萌え〉る。

 なぜかは、わからない。しかし、その〈萌え〉がとても重要なものであるらしいことは、サルにもあるらしいことでおおよそ想像がつく。ただサルにそういう意識があるかどうかはわからないが、人間的に思い当たるたしかな事実があるとすれば、いわゆる同世代というか、好むと好むまいと、おなじ時代の空気を吸って生きることになってしまったという共通の想いだ。これは間違いなくある。そういう意味では、同時代を群れて生きる動物の本能として〈群れてないとヤバい〉という恐れが〈萌え〉の源流なのかもしれない。

 サルにもソウルメイトがいるかど〜かを調査したという話は聞いたことがないけれど、しかし、人間になって、その〈なぜか萌える〉というタレントを人生を楽しむ(正確にいえば喜怒哀楽を増幅する)ための貴重なアイテムとして活用することを学習したとはいえるのではないだろうか。つまり、その友だちづくりだ。

 なぜかわからないけれど、家族以外の他人に思いがけず感じる〈萌え〉をベースに自分から求めて紡ぐ絆、友だち。ソウルメイト。それはサルはやらんいのではなかろうか。

 で、たとえば、チェ・ゲバラとフィデル・カストロはそれを支えにキューバを変えた。竜馬だってそうだ。人間界では、友情という強い絆で結ばれたヒーローたちの物語は各地で語り継がれ、たくさんの人の胸を震わせてきたし、いまでも少年マンガの欠かせないテーマのひとつだ。なぜか。

 おそらく、それこそが唯一の希望だからだ。スピリットや志を支え受け継ぎ、ときにそれらを輝かせることもやってしまうようなフォース、力となり得るものだからだ。

 そして、ふつうの人間にとってそれは、60億の孤独のなかで、互いの生きざまを隠さず生きていくほんの一握りの気心の知れた他人を意味する。

 なぜか、時間を共にしているだけでハッピー〈萌え〉で、ときに辛口の罵詈雑言で本音をぶっつけ合い、ときにそのサクセスを自分のことのように言祝ぎ、密かに負けまいという想いを、弱くてめげそうなこころの突っかい棒に使わせてもらったりしながら、遠く離れて久しくとも、互いの生きざまを想い合い、それぞれの角度で喜怒哀楽を共有しながら生きていく、いわば〈萌え〉を触覚として、この世で引き寄せあった旅の道連れ、それが友だちだ。

 わたくし的には一寸の虫にも五分のスピリット、屁のような志であったとしても、友だちの監視下に置かれてなかったら、とっくに深夜、ゴミ置き場に捨てていた。といってもかれらがいっしょに支えてくれるわけでは、もちろん、ない。ときには、内心ほくそ笑んでいるのではないかと思える冷ややかな表情を見たりして、なんだ、おのれ、クソッ!と。おかげで、吐き出すつもりの弱音を吐き出さずにすんだり。きゃつにできることなら、くそっ、おれにできないわけがないとか。そうして志や心意気を支えあったり、正直いって、友だちがいなかったら、とうの昔にめげていたにちがいない。

 その友だちづくりがジョ〜ズではないという原因がもし幼い時代のトラウマにあるのだとしたら、ノープロブレム、不治ではない。望むならソウルメイトと巡り会うこともできる。間違いない。

 第一歩は、脳ミソから配信される〈萌え〉信号を大切にすることだ。傷つくことを恐れて、育つ前にはやばやと摘み取ったりせず、クールに見守ることだ。幼いころから身を守るために決して見知らぬ人に〈萌え〉てはならないという刷り込みはかなりの壁だと思う。慎重に穴をあける必要がある。

 一例だが、ソウルメイト探しの旅で〈萌え〉を感じたときは、それが大切なものだと思えれば思えるほど、まずやわらかく見守ることだ。出会った途端、オッリャァ〜と運命的な出合いを言祝いで大騒ぎする人もいるが、運命的な出合いであることは確かだったにしても、ふつうのひと向きではない。

 相手が気にとめず、自分にとっていちばん心地良い間合いを見つけて、さり気なく見守る時間を持つ。もちろん、相手にとっても気持ち良い存在であることをアピールする必要があるけれど、それも、焦ってはならない。お互いに心地良い距離をとって、そういう時間をこころいくまで積み重ねることだ。なぜなら、それで十分わかるからだ。本当に引き合う〈萌え〉でないなら、自然に消える。それにこの段階でならお互いに傷つかずにすむ。そのへんの呼吸は、むしろ、慣れた境域かもね。

 それでも気になる〈萌え〉だったばあい、まず、心掛ける必要があるのは、第一条、金銭の貸借りをしないことだ。知恵や情報のやり取り、教えのやり取り、こころのやりとりはもちろん、相手にとって必要なことは惜しまず公開し、いっしょにいればいかに心地良い時間を過ごせるかをおおいにアピールする必要はある。しかしコーヒー代の貸借りはしないぐらいの心がけが大切だ。

 要するに、ソウルメイトと呼べる深い絆を紡ぐには、絆のなかに意図してこころの負担になったり気掛かりになるような貸借りを織り込まないようにすることが必要だということだ。その関係はどこまでもピュアーで爽やかな方がいい。

 幸運にも数少ない出合いのなかで、そういう土台が築けたら、少なくとも自分としては長い友だちでいようとキメる。そして、その絆を損なわないために自分にできることはなんでもしようと、こころにキメる。もちろん、そうと告げるわけではない。そうとお腹でキメて、いっしょにいることを楽しみ、お互いの安寧、なんたって、口にこそ出さないけれど、相手に何かがあれば喜んで巻き込まれる覚悟をキメているんだからね、安寧を祈らずにはいられないというわけさ、でしょ?そしてときに大言壮語して志を支えあい、夢見ることをできるだけ楽しむ。それがぼくにとってかけがえのない友だち像だ。

 だからして、家族を愛し、巡り合わせた人間関係をスマートに楽しくそつなく生き抜いていく才覚と処世術を身につけていれば、友だちなんか持たなくても、当然、たのしく生きていける。基本的に無くてはならないものだというわけではない。そういう意味では、友だちはいわばこの世の付録のようなものだともいえる。

 そして付録はあって愉しみなものだという意味でも共通している。友だちづくりが苦手な若者たちよ。愛することを恐れてはならない。用心深さは必要だけど、傷つくことを恐れて大事な〈萌え〉を摘み取ってはならない。もちろん、それぞれだが注意深く大切に育てることだ。それだけの価値はあると思う。ことにAnother Way を行こうと思うばあいは、だ。だと、思わない?

 そうだ。例にあげたむかしの友だち。いまはもうまったく会わなくなってしまったけれど、善かれと想う気持ちはむかしまったく変わりはない。だって、友だちでいようとキメたのはかれではなく、自分だからね。自分は裏切れない。それはプライドの問題だ。当然のことじゃないか。だしょ?

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2006年1月 9日 (月)

スタートはまず初期化して夢を持つべし

 日本列島の背骨の北側。古今未曾有、メイド・イン・シベリアの低気圧の影響を受けまくる日本海沿岸に住まう人びとはひょっとして雲間の月、明けて3日の三日月のあまりなうつくしさに息を飲み、改めて決意。

 きのうのことはわすれよう。

 幾歳月。いろいろ遭ったけれど、幸運にも、こうしてなんとかぶじに生きている。とりあえず今日明日、キルクウネルの心配もない。ならば、だ。この際、昨日までの光と影に染まった古衣、きれいすっぱり脱ぎ捨てて無一物。ゼロから出直そう、とキメた。
 だって、いまここに今日の月は見えるけれど、昨日なんて、アタマの中の神経細胞に記録されてあるだけで、ないもんね。アインシュタイン的にいえば過去というのは光速で手の届かないところにすっ飛んでいってるわけで、たったいま、ここの瞬間ですら、もうないんだもんね。いまここにあるのはまっさらに初期化された自分と、この瞬間から次の瞬間、あしたへ向かって確実にある(はずの)まっさらな時だけ。それをど〜いうふうに埋めていくか。でしょ?
 ……、そういうて借りたカネもついでに初期化というんじゃないでしょうね。
 と、とんでもない。……、おのおの方、そ〜なんです。借りたカネだけはど〜いうわけか、ぜったいに初期化できないのであります。借りたのは正真正銘、遠の昔のことなのに、なぜか、貸した方は昨日のことのように覚えていて、光速で去っていく過去とは違い、とくにお国がかってにおキメになった税金という名の借金は督促状がきたら最後、未来永劫、いつまでも光速で並走してくるんですね。そう、払い終えるか、息を引き取るか、までです。
ですから、another way を(ふつう)に生きるための第一条。
 返すあてのないカネは決して借りない。いわんや身に過ぎた借金、想定内の明日が来なければ返せないような借金はできうる限りしないこと。
時給730円のパートをしても借金はしない。ユニクロ着てても〜、こころは〜ニシキ〜。
 古い話ですが、え?それはもう聞いた?書く前にそれはないっしょ。かの貝原益軒せんせ〜も齢86歳にして斯く断言しておられます。カネの貸借は養生によくない、と。人にカネを借りることはもとより、人におカネを貸してあげるばあいも、あげるつもりで貸しなさい。返してもらわなければ困るようなカネを貸したりすると、善意といって、友を失う、と。
 益軒せんせいだけじゃござんせんよ。かの名優、ロバート・デ・ニーロさんも自分の少年時代を描いた傑作「ブロンクス物語/愛に包まれた街」(93年)のなかで、可愛がってくれたマフィアのボスにアドバイスさせているじゃありませんか。ロバート少年がカネを貸してやったために、彼を避けて逃げ回るようになった友だちの悲劇を。
 ま、ま、古い話ですし、いやいや、どこかのナウい(フルゥ〜)オン・ザ・ヒル発の常識からすると、そういう考え方こそ(ふつう)ではない。ばかりか非常識というより、おまえ、アホか、のステージなんでしょうねえ。遅れた人。追いつけてない人。最近、メディアでは負け組とも…? ふっふっふ、わっはっは、いえいえ、ど〜ぞ、ど〜ぞ、お構いなく。ご遠慮なく、どんどんお先に。あ、高けぇなあ、あんなとこまで登っちゃいましたよ。ひぇ〜ひぇ〜ひぇ〜。こちらはとりあえず、お金以外の昨日までを初期化。オーノーリターン。
 リターンキーに触れた瞬間、昨日までの一切が光速で宇宙の彼方へ。因縁チャラ。
 かたよらないこころ
 こだわらないこころ
 とらわれないこころ
 これ高田好胤?オショウの般若心経の解釈ね。かくて無、Be Here Now。ただいま、眼前にあるのは、わが身を取り巻いている現実世界のみ。で、そいつにど〜対処していくか。それっきゃないっしょ。おのおの方。
 しかしながら、ひとくちにそ現実世界ったって、見方によって千人千様、人の数だけ見え方があり、他人から見た目はともかく、当人にとってはどれもが紛うことなく確かな現実。間違っているということはない。だって、そう見えているんだもんね。ものは考えよう、現実は万華鏡。要するにだれもが見たい現実を万華鏡のなかに見ているにすぎないということじゃナ。そこで、じゃ。ど〜にでも見える現実世界を筋を通して見るにはど〜すればよいか?それはジョ〜シキであらせられまっしゃろ。

   そして夢を持つこと

   百人百様に見える現実世界のなかに自分に必要なものと必要でないものとをキッチリ見定めるには、まず、夢を抱く必要がある。夢がなければ視座、視点、パースペクティブが定まらない。と〜ぜんでしょ。たとえば、だ。
 争いごとが大っ嫌い。できればLove & peace。せめて生きている間、できれば子子孫孫、争い合うことなく和気愛々、ビッグスマイルな日々を生きていきたい。その方が免疫機能もよく働いて健康でもいられるらしい。という夢を抱いたとしよう。
 そうすると、まず、自分がLave & peace である必要がある。そして家族。ついでご近所。そして地域や勤め先、勤め先にいたるルート、つまり自分が日常的に直接、接触している世界の現実じゃな。これが穏やかでなければ、とてもLove & peaceを安心して生きていくというわけにはいかない。そういう観点から取り巻く世界を見る。ノープロブレムなら、ラッキー。自分のキルクウネルに集中できる。
 しかし、だ。それだけで安心というわけにはいかない。現実の世界というのは、直接、自分が何とかできるわけではないけれど、自分の日常には有無をいわさず踏み込んできて身柄をかっ攫っていく現実というのがある。つまり、〈選挙権〉という権利で繋がっている社会、国、国を取り巻く国際社会。これらの現状がど〜なっているかも、注意深くウォッチングして、適切に選挙権を行使していかないと、たとえば西日本JRの暴走事故に構造計算偽造事故。はたまたイラク派兵。サマ〜ワのデザートに、そんなつもりで自衛隊にはいったわけではない(ともらしていた)のに派兵されてしまったご近所のお父さんの心配をしなければならなくなったりする。つぎは9条改正だって?
 くわえて昔はぜ〜んぜん、心配する必要などまるでなかった母の懐。リサイクル、ゴミの分別と排気ガス、足下から繋がっている母なる地球環境の汚染、こいつもポイ捨てというわけにはいかなくなるわけで。
 つまり、夢さえ持てば、あ〜らフシギ。夢角度からの現実も見えてくるし、なにが重要でなにがど〜でもよろしいか、なにをしてなにをしないかも歴然と見えてくるわけで。夢を持たなければどこかのお国のリーダーさんたちと同じ。ただ、目前に生滅するさまざまな現実にその場その場の都合でプライオリティーをキメて手直ししながら行き当たりばったり、先を見る眼のないミミズのように生きていくしかないわけで。
 夢。大見得切ってビジョンといった方が、見える現実もなにをしたらいいかもより鮮明になるでしょうが、ともかく、これを持たずして、気持ちのいい奥行きのある人生を生きるなどということは、土台、不可能といっても間違いありましぇん。だしょ?
 で、てまえミソではありますが、たとえば、夢はラブ・アンド・ピースな人生。自分を原点に、自分を取り巻いて足下から宇宙へと同心円状に広がる万華鏡的現実を、
 1に、自分の手が届く現実、
 2に、選挙と念(まさかのデモと)でしか対応できない現実、
 3に、足下から地球→宇宙へと通底してある生息環境という現実、
 という具合に3つのカテゴリーにわけて、エ?宇宙だってそれこそ天災、いつ巨大隕石が降ってくるかわからないわけで(でしょ?)、油断なくウォッチングして、まず安心できる部分は言祝ぎ、それを土台にして、ただいま自分のできることを判別し、できることは即、実行。手の届かないところにはマントラに託して念を送り、今日の取りあえずの安寧に感謝しながら、ハッピーな気分を生きていこうと、ま、そういう生き方がひとつのanother wayであろうかな、とこういう次第なわけです。
 さて、初期化して、まず1のカテゴリーでトレースする必要があるのはオノが心身の健康。身の健康の如何をトレースする方法については、「すと〜んどタイムス」のからだについてを見てくだされ。順次、書き込むつもりで長く手をいれてませんが、概略は書いてあります。心の健康も然り、あたまについてを参考までにご笑覧。
 ついで、日常を共にしている近い家族・友人の心身の健康状態の如何。家族・ダチのなかに一人でも不調の輩がいると、気持ちが浮かない。じゃによって、ここは陰に日なたに、助けられるところは助けて、スマイリーになってもらわないと、ね。
 え?風邪みたい?葛根湯じゃもう遅い?とりあえず、背中にホカロン貼って。ない?じゃ、わたし、買ってくる。とか。そうやって3つのカテゴリーをトレースして、今できることをする。
 なに?家族やダチの心配する前に、まず、てめえのアタマのハエを追えって?我が家の頭痛のタネは、てめえがニートであることだ、って?と、とんだ藪蛇。さては、年末、十分な家庭貢献を怠りましたね。そうでなければ、松の内ぐらいは言葉を呑んでくれるはずなのに。チッ。
 ハイ!、今年も…じゃない、今年こそは自己実現に向けて前向きに、鋭意、熟慮いたします。
 ま〜だ、あんな脳天気なこといってるよ。おまえ、今年でいくつになる?熟慮の段階は遠に終わり。行動だろ、行動!
 ど〜も、正月早々、いけませんな、雲行きが。ですからね、今年こそ、きれいさっぱり過去を払拭、初期化して、出直そうと、ただいま決意……。おと〜さま、おか〜さま、兄弟よ、姉妹よ、懲りずによろしく暖かく、見守っておくんなせ〜まし。え?口ばっかり?いえ、いえ、行動、行動、ですよねえ。雪下ろし、やります!
 ナヌ?うちは太平洋側にあり、雪下ろしの必要がないが、ナニをすればよろしいか、と?ふ〜む。そうじゃな、まず顔を洗いましょうや。だってサ、きょう日、温水で顔を洗うのがふつうになったせいか、あまりいわなくなりなしたが、むかしの人はよく言ってくれてたらしいじゃない。

 顔を洗って出直して来い!

 ってさ。想像するに、厳冬のシャリシャリと音がしそうな4℃。凍結寸前のワァラ〜をば、だな、まったりとふやけた面に初体験、ぶっ掛けた途端、シャキ〜ン!
 ちなみに〈ふやけた〉という形容詞の変換文字がないので、辞書をめくってみると類語〈ふやける〉の解説にこうあった。
 1、水分をすってふくれる 2、精神が緊張を欠いている。また、頭が働いていない。
 ふっふっふ、けだし至言じゃな。つまり、じゃ。表現はいかにもシャイな昔の人らしく乱暴ではあるけれど、昔の人は、精神が緊張を欠いて、アタマが働かないときには、冷水で顔を洗う(むかしはそれがふつうだった)と、瞬時にして精神のたるみが取れ、働いていないアタマが働きはじめるという事実を経験的に知っていて、だから、やってみろ、と。とりあえずDo it!だと、そしたら出直せるゾ、と、じつはそういう深〜い愛情と経験知に裏付けられたアドバイスだったんじゃないっしょうかねぇ。想像するだけでなく、まぁ、やってごらんなせぇませよ。
 効くの効かねぇのって、瞬間、キィ〜〜ンと、ほとんどジェット戦闘機がドルビーサウンドでアタマのなかを駆け抜けるような衝撃があって、アタマんなかは瞬時に完全初期化(瞬間、借金も飛びますです)された上に、なぜかマジという付録がついて初心、ここはどこ?わたしはだれ?というぐらいアタマは真っ白にキマリますですよ。
 ちなみに剃髪している坊さんどもは毎朝、顔面だけでなくアタマまでこれをおやりになっておられるわけです。顔面だけでも世俗の浮きごとなんて簡単にぶっ飛びますですからね、アタマまで浴びせれば、ひょっとして24時間ぐらいはスト〜ンドの境地が持続可能な、これは秘儀かも…。いヤ、マジ、無ッとはいかなくても、ひょっとして仰天動地、なんとしても作動しなかったアタマに突如スイッチが入り、人生を変えるような思いもかけない閃きとアイデアが、さながら温泉の沸き出すがごとく仏々とアタマのなかから噴出してくるかもよ。冷水洗顔、やってみよし。

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